幽夢影 / 巻下・如何なるか是れ獨り樂を樂しむ
如何是獨樂樂,曰鼓琴。如何是與人樂樂,曰奕棋。如何是與眾樂樂,曰馬弔。
新字:如何是独楽楽,曰鼓琴。如何是与人楽楽,曰奕棋。如何是与衆楽楽,曰馬弔。
書き下し
如何なるか是れ獨り樂を樂しむ、曰く琴を鼓す。如何なるか是れ人と樂を樂しむ、曰く棋を奕す。如何なるか是れ眾と樂を樂しむ、曰く馬弔。
現代語訳
ひとりで楽しむ楽しみとは何か。琴を弾くことです。相手と楽しむ楽しみとは何か。碁を打つことです。大勢と楽しむ楽しみとは何か。馬弔(明末に流行した札遊び)です。
解説
『孟子』の有名な問答を、遊びの話にすり替えてみせた一則です。孟子は斉の宣王に、音楽を独りで楽しむのと人と楽しむのと、どちらが楽しいかと問い、民とともに楽しむことを説きました。張潮はこれを禅問答の形式に借りて、独りなら琴、二人なら囲碁、大勢なら札遊びと、あっさり答えてしまいます。馬弔は明末清初に流行した紙の札の遊びで、四人で遊ぶものでした。高尚な政治論を日常の遊びに置き換える軽妙さが見どころです。友人の蔡鉉昇は孟子の問答をもじって「大勢より少人数と楽しむほうがよい」と言っています。一人の時間、誰かとの時間、大勢の時間、それぞれにふさわしい楽しみを持っておくと暮らしが豊かになります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
娯楽孟子琴棋閑適交友
関連する章句
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『幽夢影』巻上・人は閒より樂しきは莫し人は閒より樂しきは莫し、事とする所無きの謂に非ざるなり。閒なれば則ち能く書を讀み、閒なれば則ち能く名勝に遊び、閒なれば則ち能く益友に交はり、閒なれば則ち能く酒を飲み、閒なれば則ち能く書を著す。天下の樂しみ、孰れか是れより大ならん。
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『幽夢影』巻上・翰墨棋酒無くんば昔人云ふ、若し花・月・美人無くんば、此の世界に生ずるを願はずと。予一語を益して云ふ、若し翰・墨・棋・酒無くんば、必ずしも定めて人身と作らずと。
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『講孟余話』梁惠王上 第二章賢者にして而る後に此れを楽しむ、不賢者は此れ有りと雖も楽しまざるなり。此の章に於て楽と云ふことを発明すべし。文王の楽は台池鳥獣を楽しむに非ず、民の楽しむを楽しむなり。民の楽も亦台池鳥獣を楽しむに非ず、乃ち文王の楽しむを楽しむなり。君民上下互ひに其の楽を楽しむ、是れを偕に楽しむと云ふ。桀の楽しみは是れに反す。其の楽しむこと台池鳥獣にありて、民と偕にせず、故に独楽と云ふ。今人酒を楽しむ者あり、色を楽しむ者あり、奕を楽しむ者あり、茶を楽しむ者あり、其の他百千の楽しむ所枚挙に暇あらず、是れ皆桀の徒なり。苟も文王の楽を楽しまんとならば、父子相楽しみ、君臣相楽しみ、兄弟親族朋友郷党相楽しむの境を自得せば、豈に楽しからずや。然れども今諸君と獄に繋がれ、此の楽しみ万々望みなし。但だ相共に斯の道を研究し、縲紲牢狴の何物たるを知らざるに至らば、豈に楽の楽に非ずや。願はくは諸君と偕に是れを楽しまん。
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孟子・梁惠王章句下莊暴、孟子に見えて、曰く、「暴、王に見ゆ。王、暴に語ぐるに樂を好むを以てす。暴未だ以て對うる有らざるなり。」曰く、「樂を好むこと何如。」孟子曰く、「王の樂を好むこと甚しければ、則ち齊國は其れ庶幾からんか。」他日、王に見えて曰く、「王嘗て莊子に語ぐるに樂を好むを以てすと。諸れ有るか。」王色を變じて曰く、「寡人能く先王の樂を好むに非ざるなり。直だ世俗の樂を好むのみ。」曰く、「王の樂を好むこと甚しければ、則ち齊は其れ庶幾からんか。今の樂は猶ほ古の樂のごときなり。」曰く、「聞くことを得可きか。」曰く、「獨り樂を樂しむと、人と樂を樂しむと、孰れか樂しき。」曰く、「人と與にするに若かず。」曰く、「少と與に樂を樂しむと、衆と與に樂を樂しむと、孰れか樂しき。」曰く、「衆と與にするに若かず。」「臣請う、王の為に樂しみを言わん。今、王、此に鼓樂せんに、百姓、王の鐘鼓の聲・管籥(カン・ヤク)の音を聞き、舉(みな)首を疾ましめ頞(アツ)を蹙(しかめる)めて、相告げて曰く、『吾が王の鼓樂を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず、兄弟妻子離散す。』今、王此に田獵せんに、百姓、王の車馬の音を聞き、羽旄(ウ・ボウ)の美を見て、舉首を疾ましめ頞を蹙めて相告げて曰く、『吾が王の田獵を好む、夫れ何ぞ我をして此の極に至らしむるや。父子相見ず、兄弟妻子離散す。』此れ他無し、民と樂を同じくせざればなり。今、王此に鼓樂せんに、百姓、王の鐘鼓の聲、管籥の音を聞き、舉欣欣然として喜色有りて、相告げて曰く、『吾が王、疾病無きに庶幾からんか。何を以て能く鼓樂せんや。』今、王此に田獵せんに、百姓、王の車馬の音を聞き、羽旄の美を見て、舉欣欣然として喜色有りて、相告げて曰く、『吾が王、疾病無きに庶幾からんか。何を以て能く田獵せんや。』此れ他無し、民と樂を同じうすればなり。今、王、百姓と樂同じうすれば、則ち王たらん。」
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『講孟余話』梁惠王下 首章今の楽は由ほ古の楽のごときなり。臣請ふ王の為めに楽を言はん。或ひと疑ふ、今の楽は由ほ古の楽のごときなりといへば、孔子の楽は則ち韶舞と云ひ、鄭声を放てと云ふ、皆非か。且つ臣請ふ王の為めに楽を言はんと云ひて、鼓楽の事のみならず、田猟の事にも及ぶは何ぞや。答へて曰く、今の楽は由ほ古の楽のごときなりと云ふは、大区別を云ふなり。大区別とは、民と楽を同じうすると楽を同じうせざるとの区別なり。故に民と楽を同じうする時は、韶濩にても鄭衛にても皆可なり。楽を同じうせざる時は、韶濩にても鄭衛にても皆不可なりと云ふ意にて、此の章は楽の善悪は姑く置きて、楽を同じうすると同じうせざるとの善悪を区別するなり。若し孟子をして細かに楽の善悪を論ぜしめば、固より亦孔子の論の如きのみ。然れども其の実は楽は楽なり、和楽を本とす。故に王の為めに楽を言はんと云ふも楽の本を論ずるなり。鼓楽にもせよ、田猟にもせよ、民心、上のする所を楽しむにてこそ楽の本なれ。乃ち上篇第二章の文王の麋鹿魚鼈の如き、皆真の楽と云ふべし。此の意を知りて此の章を読む時は、何の疑ひかあらん。
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