仏遺教経 / 夜に電光を見るが如し
於此眾中、所作未辦者、見佛滅度、當有悲感。若有初入法者、聞佛所說、即皆得度、譬如夜見電光、即得見道。若所作已辦、已度苦海者、但作是念:世尊滅度、一何疾哉!
新字:於此眾中、所作未辦者、見仏滅度、当有悲感。若有初入法者、聞仏所説、即皆得度、譬如夜見電光、即得見道。若所作已辦、已度苦海者、但作是念:世尊滅度、一何疾哉!
書き下し
此の衆中に於て、所作未だ辦ぜざる者は、仏の滅度を見て、当に悲感有るべし。若し初めて法に入る者有らば、仏の所説を聞きて、即ち皆な度するを得ん。譬えば夜に電光を見て、即ち道を見るを得るが如し。若し所作已に辦じ、已に苦海を度れる者は、但だ是の念を作さん、世尊の滅度、一に何ぞ疾きかな、と。
現代語訳
この集まりのなかで、なすべきことをまだ終えていない者は、仏の入滅を見て悲しみを覚えるだろう。もし初めて法に入った者があれば、仏の説くところを聞いて、みなすぐに救われるだろう。たとえば夜に稲光を見て、そのとき道が見えるようなものである。もしなすべきことをすでに終え、すでに苦の海を渡った者は、ただこう思うだけだろう。世尊の入滅は、なんと早いことか、と。
解説
同じ場にいる人が、どの段階にいるかで受け取り方が三つに分かれる、と述べた一段である。まだ終えていない者は悲しみ、初めて入った者は稲光のように道が見え、すでに渡った者はただ「早かった」と思うだけ。同じ出来事が、聞く側の段階によって別のものになる。とくに二つ目の比喩がいい。夜の稲光は一瞬だが、その一瞬に道が見える。初学者にとって最後の説法がそう働く、と。教える側から見れば、同じ言葉が相手によって違う効き方をするという前提の確認になる。誰に向けて話しているのかを、この経は最後まで見分けている。
この章句が説くこと
夜に電光を見る所作未だ辦ぜず苦海を度る段階によって届き方が違う
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