徒然草 / 第71段
名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家のそこ程にてぞありけむと覺え、人も今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覺ゆるにや。またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
新字:名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家のそこ程にてぞありけむと覚え、人も今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覚えて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
書き下し
名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家のそこ程にてぞありけむと覚え、人も今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覚ゆるにや。またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覚えて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
現代語訳
人の名前を聞くと、すぐにその面影が推し量られる気がするものだが、実際に会ってみると、また前もって思い描いていた通りの顔をしている人はいないものだ。昔の物語を聞いても、この頃の人の家のあのあたりのことであろうかと思われ、登場する人も今見ている人の中の誰かに思い当てられるのは、誰しもこのように感じるものであろうか。またどういう折であろうか、ちょうど今人が言うことも、目に見えるものも、自分の心の中も、こうしたことがいつかあったなあと思われて、いつだったかとは思い出せないけれども、確かにあった時の心地がするのは、自分だけがこのように思うのであろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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葉隠・聞書第一浪人しても上(かみ)を怨(うら)むな、我が非を知らねば帰参(きさん)出来ぬなり。浪人の身にて、上を怨み候事〔あり〕。何某(なにがし)浪人、内実(ないじつ)に非を知りて崩す。前方(ぜんぽう)仰付(おおせつけ)御断(おことわ)り、二度目に御請誓詞(おうけせいし)の事。同筋(どうすじ)にて浪人の事。斯様(かよう)の我が非を存ぜざる間(あいだ)は、帰参有るまじき事。今にも御情(おなさけ)無きの、誰がにくい者などと計(ばか)り、胸をこがし候て、なお天道(てんとう)の悪(にく)みを受くるなり。何某の評判に、御罰(おばち)よと申されたるとなり。人がのがれぬなり。罪一人に有りと思い返され候え。
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論語 衛霊公篇子曰わく、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みる。
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「君子の人に異なる所以の者は、其の心を存するを以てなり。君子は仁を以て心を存し、禮を以て心を存す。仁者は人を愛し、禮有る者は人を敬す。人を愛する者は、人恒に之を愛し、人を敬する者は、人恒に之を敬す。此に人有り、其の我を待つに横逆を以てすれば、則ち君子必ず自ら反するなり。『我必ず不仁ならん、必ず禮無からん。此の物奚ぞ宜しく至るべけんや。』と。其の自ら反して仁なり。自ら反して禮有り。其の橫逆由ほ是のごとくなるや、君子必ず自ら反するなり。『我必ず不忠ならん。』と。自ら反して忠なり。其の橫逆由ほ是のごとくなるや、君子曰く、『此れ亦た妄人なるのみ。此の如くんば、則ち禽獸と奚ぞ擇ばんや。禽獸に於いて又何ぞ難ぜん。』是の故に、君子には終身の憂い有るも、一朝の患い無きなり。乃ち憂うる所の若きは則ち之れ有り。『舜も人なり、我も亦た人なり。舜は法を天下に為し、後世に傳う可し。我は由ほ未だ鄉人為るを免れざるなり。』是は則ち憂う可きなり。之を憂えば如何にせん。舜の如くせんのみ。夫の君子の若きは、患いとする所は則ち亡し。仁に非ざれば為す無きなり。禮に非ざれば行う無きなり。一朝の患い有るが如きは、則ち君子は患いとせず。」
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老子 第33章人を知る者は智、自らを知る者は明。人に勝つ者は力有り、自らに勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強行する者は志有り。その所を失わざる者は久し。
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