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都鄙問答 / 卷之三・性理問答ノ段

竊比於我老彭トノ玉フコトヲ知ラルベシ、其德ハ古今ノ聖人ニ勝レ玉ヘドモ、此等ノ賢人ニモ、一事ノ德アレバ慕玉フ、無我ノ所ヲ法トスベシ、況ヤ心ヲ得度思フ者、私心有テハ、得ラルベキ所ニアラズ、心ハ彼ニテハ得ラレズ、此ニテハ得ラルヽトハ定メガタシ、孔子在川上曰、逝者如斯夫、不舍晝夜ト、道ノ體ヲ指テ、見易カルベキハ、川ノ流ニ如ハナシト示シ玉フ、滄浪ノ水濁バ足ヲ濯ノ歌ヲ聞玉ヒ、小子コレヲ聞、自心ニ不善アレバ、他ヨリ侮リヲ受ルト示シ玉フ、聖人ハ見聞コトヲ心トシ玉フコト如斯、道ニ信仰アルコソ、聖人ノ學問トハイフベケレ、我前方ニ、一物一大極ノコトヲ疑ヒシニ、或書ヲ見侍ルニ、天地一面ノ神國トイハヾ、博シテ狭シ、

新字:窃比於我老彭トノ玉フコトヲ知ラルベシ、其徳ハ古今ノ聖人ニ勝レ玉ヘドモ、此等ノ賢人ニモ、一事ノ徳アレバ慕玉フ、無我ノ所ヲ法トスベシ、況ヤ心ヲ得度思フ者、私心有テハ、得ラルベキ所ニアラズ、心ハ彼ニテハ得ラレズ、此ニテハ得ラルヽトハ定メガタシ、孔子在川上曰、逝者如斯夫、不舎昼夜ト、道ノ体ヲ指テ、見易カルベキハ、川ノ流ニ如ハナシト示シ玉フ、滄浪ノ水濁バ足ヲ濯ノ歌ヲ聞玉ヒ、小子コレヲ聞、自心ニ不善アレバ、他ヨリ侮リヲ受ルト示シ玉フ、聖人ハ見聞コトヲ心トシ玉フコト如斯、道ニ信仰アルコソ、聖人ノ学問トハイフベケレ、我前方ニ、一物一大極ノコトヲ疑ヒシニ、或書ヲ見侍ルニ、天地一面ノ神国トイハヾ、博シテ狭シ、

書き下し

窃かに我が老彭に比すとのたまふことを知らるべし。其の徳は古今の聖人に勝れ給へども、此等の賢人にも、一事の徳あれば慕ひ給ふ。無我の所を法とすべし。況んや心を得たく思ふ者、私心有りては、得らるべき所にあらず。心は彼にては得られず、此にては得らるるとは定めがたし。孔子川の上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かずと。道の体を指して、見易かるべきは、川の流れに如くはなしと示し給ふ。滄浪の水濁らば足を濯ふの歌を聞き給ひ、小子これを聞け、自ら心に不善あれば、他より侮りを受くると示し給ふ。聖人は見聞くことを心とし給ふことかくの如し。道に信仰あるこそ、聖人の学問とはいふべけれ。我前方に、一物一大極のことを疑ひしに、或る書を見侍るに、天地一面の神国といはば、博くして狭し、

現代語訳

ひそかに自分を老彭になぞらえる」と言われたことを知るべきです。その徳は古今の聖人にまさっておられたのに、こうした賢人にも一つの徳があれば慕われました。この無我のところを手本とすべきです。まして心を得たいと思う者が、私心を持っていては得られるものではありません。心はあちらでは得られず、こちらでなら得られる、と決めることはできません。孔子は川のほとりで「過ぎゆくものはこの流れのようだ。昼も夜もとどまらない」と言われ、道の本体を示すのに、見やすいものとして川の流れに及ぶものはないと示されました。「滄浪の水が濁れば足を洗う」という歌を聞かれて、「弟子たちよ、聞け。自分の心に不善があれば、人から侮りを受けるのだ」と示されました。聖人は見聞きすることをこのように心とされたのです。道を信じ仰ぐことこそ、聖人の学問と言うべきです。私は以前、「一物一太極」のことを疑っていましたが、ある書を見ると、天地一面が神の国だと言えば広くて狭く、

解説

孔子の学び方を具体例で示す段です。述而篇の「窃かに我が老彭に比す」、子罕篇の川上の嘆「逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎かず」、そして孟子離婁上篇で孔子が孺子の滄浪の歌を聞いて「清めば纓を濯い、濁れば足を濯う、自ら之を取るなり」と弟子を戒めた話が挙がります。どれも、目の前の川や子どもの歌から道を読み取った例です。答えはどこか特定の場所にあるのではなく、見聞きするすべてから学べる。末尾では梅岩自身が朱子学の「一物一太極」の疑問を、他の書から解いた経験を語り始めます。

この章句が説くこと

無我論語孟子滄浪学び

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