都鄙問答 / 卷之二・鬼神ヲ遠ト云事ヲ問ノ段
答、敬シテ遠クトノ玉フハ左ニハアラズ、外神ヲ祭ルハ、敬愼而已ヲ主トス、此故ニ、道ナラヌ穢キ願ヒヲ遠ザケ、又先祖ヲ祭ルハ孝ヲ主トス、是遠クニアラズ、扠敬シテ遠クトノ玉フニ、大ニ取違ヒ有コトナリ、神ハ非禮ヲ受玉ハズ、然レバ非禮ノ願ヒヲ以テ近ヅクヲ不敬トス、敬ヒヲ遠クトノ玉フニハアラズ、汝ノイヘル如クナレバ、我朝ノ神ハ、願狀ヲ籠テ、成就ニ至ル時ニハ、願文ノ通ニ鳥居ヲ立、或ハ社ノ脩覆ナド致ヲ、敬ヒト思ワレ候ヤ、
新字:答、敬シテ遠クトノ玉フハ左ニハアラズ、外神ヲ祭ルハ、敬慎而已ヲ主トス、此故ニ、道ナラヌ穢キ願ヒヲ遠ザケ、又先祖ヲ祭ルハ孝ヲ主トス、是遠クニアラズ、扠敬シテ遠クトノ玉フニ、大ニ取違ヒ有コトナリ、神ハ非礼ヲ受玉ハズ、然レバ非礼ノ願ヒヲ以テ近ヅクヲ不敬トス、敬ヒヲ遠クトノ玉フニハアラズ、汝ノイヘル如クナレバ、我朝ノ神ハ、願状ヲ籠テ、成就ニ至ル時ニハ、願文ノ通ニ鳥居ヲ立、或ハ社ノ脩覆ナド致ヲ、敬ヒト思ワレ候ヤ、
書き下し
答、敬して遠くとのたまふは左にはあらず。外神を祭るは、敬慎而已を主とす。此故に、道ならぬ穢き願ひを遠ざけ、又先祖を祭るは孝を主とす。是遠くにあらず。扠敬して遠くとのたまふに、大に取違ひ有ことなり。神は非礼を受玉はず。然れば非礼の願ひを以て近づくを不敬とす。敬ひを遠くとのたまふにはあらず。汝のいへる如くなれば、我朝の神は、願状を籠て、成就に至る時には、願文の通に鳥居を立、或は社の脩覆など致を、敬ひと思われ候や。
現代語訳
梅岩「敬して遠ざくとおっしゃったのは、そういう意味ではありません。外の神を祭るのは、敬い慎むことだけを主とします。だから道に外れた穢れた願いを遠ざけるのです。また先祖を祭るのは孝を主とし、これは遠ざけることではありません。さて、敬して遠ざくという言葉には大きな取り違えがあります。神は非礼を受けられません。ですから非礼な願いを持って近づくのを不敬とするのです。敬いを遠ざけよとおっしゃったのではありません。あなたの言うとおりなら、わが国の神に願状を納め、成就したときに願文のとおり鳥居を建てたり社を修繕したりするのを、敬いだと思っておられるのですか。」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『関聖帝君覚世真経』第二段・天地を敬し、神明を礼す天地を敬し、神明を礼し、祖先を奉じ、双親に孝に、王法を守り、師尊を重んじ、兄弟を愛し、朋友に信あり、宗族に睦まじく、郷隣に和し、夫婦を敬し、子孫を教ふ。
-
言志四録・言志耋録 第二百八十六条 敬は終身の孝人道は敬に在り。敬は固より終身の孝為り。我が躯を以て親の遺と為せばなり。一息尚ほ存せば、自ら敬するを忘る可けんや。
-
論語・為政篇子游孝を問う。子曰く、「今の孝者は、是れ能く養うと謂う。犬馬に至るまで、皆能く養うこと有り。敬せずんば、何を以て別たんや。」
-
『都鄙問答』卷之一・孝ノ道ヲ問ノ段答ふ、かくのごとき者を、世間並みの人と思ふべけれど、親へつかふる道は、曾て知らざる者なり。汝は書を読みながら、書を読まざる愚昧の者を、法とするゆへに、父母に事ふる道を知らず。昔し公明宣、曾子に学ぶこと三年、書を読まず。曾子曰く、宣、参の門に居ること三年、学ばざるは何ぞや。公明宣曰く、安んぞ敢へて学ばざらん。宣、夫子の庭に居るを見るに、親在せば、叱咤の声未だ嘗て犬馬に至らず。宣之を説びて、学べども未だ能はず、と云へり。曾子の如きは、親の前にては、犬や馬さへ怒りて叱り玉はず。然るに汝は、只養ふを孝と思へり。子曰く、今の孝は是れ能く養ふを謂ふ。犬馬に至るまで皆能く養ふこと有り。敬せずんば何を以て別たんや、と。是の如くなる時は、父母に事ふる道は、愛と敬との二つなり。愛は、いつくしみあいする心なり。敬は、つつしみうやまふ心なり。然るに汝は、父母の命を用ひずして心を痛ましむ。心を痛ましむるは、愛心なきが故なり。命を用ひざるは、敬心なきが故なり。愛敬の心なきは、鳥獣に同じ。汝は世に呼ばるるほどの孝を問ふ。聖賢の孝を聞かんと思はば、早く愛敬の心を知るべし。愛敬の心を知らば、聖賢の孝にも到るべし。
-
『慎思録』巻之一聖人の人を教ふるや、人倫を厚くするに在り。人倫を厚くするの道は、人を愛し人を敬するを以て本と為す。是れ愛敬は、人倫を厚くするの道なり。父母に愛敬するは、又其の本なり。幼学の輩を教ふるに、先づ須らく愛敬を以てすべし。夫れ温恭にして自ら虚しくするは、子弟為る者の当に先づ服行すべき所なり。是れ乃ち人倫に接して善を為すの始めなり。
-
『論語と算盤』教育と情誼・孝は強ふべきものに非ず論語の為政篇中に、「孟武伯孝を問う。子曰く、父母はただその疾をこれ憂う」、また「子游孝を問う。子曰く、今の孝はこれよく養うを謂う。犬馬に至るまで、皆よく養うあり。敬せずんば何をもって別たんや」、なおこの外にもあるごとく、孔夫子は孝道の事についてしばしば説かれている。しかし親から子に対して孝を励めよと強いるのは、かえって子をして不孝の子たらしむるものである。私にも不肖の子女が数人あるが、それがはたして将来いかなるものか、私には解らぬ。私とても子女等に対して、時折「父母はただその疾をこれ憂う」というような事を説き聞かせもする。それでも決して孝を要求し孝を強いるような事は致さぬ事にしている。親は自分の思い方一つで、子を孝行の子にしてもしまえるが、また不孝の子にもしてしまうものである。自分の思う通りにならぬ子を、すべて不孝の子だと思わば、それは大なる間違いで、皆よく親を養うというだけならば、犬や馬のごとき獣類といえども、なおかつこれをよくする。人の子としての孝道は、かく簡単なるものであるまい。親の思う通りにならず、絶えず親の膝下にいて親をよく養うようなことをせぬ子だからとて、それは必ずしも不孝の子でない。