帝範 / 序
朕聞大徳曰生,大寳曰位。辨其上下,樹之君臣,所以撫育黎元,鈞陶庶類,自非克明克哲,允武允文,皇天眷命,歴數在躬,安可以濫握靈圖,叨臨神器!是以翠媯荐唐堯之徳,元圭錫夏禹之功。丹字呈祥,周開八百之祚;素靈表瑞,漢啓重世之基。由此觀之,帝王之業,非可以力爭者矣。
新字:朕聞大徳曰生,大寳曰位。弁其上下,樹之君臣,所以撫育黎元,鈞陶庶類,自非克明克哲,允武允文,皇天眷命,歴数在躬,安可以濫握霊図,叨臨神器!是以翠媯荐唐堯之徳,元圭錫夏禹之功。丹字呈祥,周開八百之祚;素霊表瑞,漢啓重世之基。由此観之,帝王之業,非可以力争者矣。
書き下し
朕(ちん)聞(き)く、大徳(たいとく)を生(せい)と曰(い)ひ、大寳(たいほう)を位(くらゐ)と曰(い)ふと。其(そ)の上下(しょうげ)を辨(わきま)へ、之(これ)に君臣(くんしん)を樹(た)つるは、黎元(れいげん)を撫育(ぶいく)し、庶類(しょるい)を鈞陶(きんとう)する所以(ゆゑん)なり。克(よ)く明(めい)に克(よ)く哲(てつ)に、允(まこと)に武(ぶ)に允(まこと)に文(ぶん)に、皇天(こうてん)命(めい)を眷(かへり)み、歴數(れきすう)躬(み)に在(あ)るに非(あら)ざるよりは、安(いづく)んぞ濫(みだ)りに靈圖(れいと)を握(にぎ)り、叨(みだ)りに神器(しんき)に臨(のぞ)む可(べ)けんや。是(ここ)を以(も)って翠媯(すいき)は唐堯(とうぎょう)の徳(とく)を荐(すす)め、元圭(げんけい)は夏禹(かう)の功(こう)に錫(たま)ふ。丹字(たんじ)祥(しょう)を呈(てい)して、周(しゅう)は八百(はっぴゃく)の祚(そ)を開(ひら)き、素靈(それい)瑞(ずい)を表(あらは)して、漢(かん)は重世(ちょうせい)の基(もとゐ)を啓(ひら)く。此(これ)に由(よ)って之(これ)を觀(み)れば、帝王(ていおう)の業(ぎょう)は、力(ちから)を以(も)って爭(あらそ)ふ可(べ)き者(もの)に非(あら)ざるなり。
現代語訳
私はこう聞いている。天地の最も大きな徳は「生かすこと」であり、最も大きな宝は「位」である、と。上下をわきまえて君と臣を立てるのは、民を養い育て、あらゆるものを陶工が轆轤で整えるように治めるためだ。明らかで智があり、まことに武にもまことに文にも通じ、天がその命を顧み、天の巡りがわが身にある——そうでもなければ、どうしてみだりに天命の図を握り、身のほど知らずに帝位に臨むことができようか。だからこそ翠媯の川は堯の徳を天に薦め、玄圭は禹の功に授けられた。赤い文字が瑞兆を示して周は八百年の祚を開き、白い霊が瑞を表して漢は代を重ねる基を築いた。こうして見てくれば、帝王の業とは、力ずくで奪い取れるものではないのだ。
解説
『帝範』は唐の太宗が貞観二十二年(六四八)、死の前年に皇太子へ与えた十二篇の教えである。その冒頭に太宗が置いたのは、帝位は力で取るものではない、という一句だった。玄武門の変で兄と弟を討ち、父を退けて位に就いた当人が書いていることを思えば、この宣言の重さが分かる。「大徳を生と曰ひ、大寳を位と曰ふ」——位は宝だが、その宝の中身は「生かすこと」だと最初に定義される。位そのものが目的ではなく、民を養う手段として位がある。堯・禹・周・漢と並ぶ古例はいずれも、徳が先にあって位が後から来た例として引かれている。組織の頂点に立つ者が、自分の地位を何によって支えているのかを問う序文である。
この章句が説くこと
大徳曰生大宝曰位天命帝王の業
関連する章句
-
論語・堯曰篇堯曰く、「咨、爾舜、天の暦数爾の躬に在り。允に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終わらん。」舜も亦た以て禹に命ず。曰く、「予小子履、敢えて玄牡を用い、敢えて昭らかに皇皇たる后帝に告ぐ。罪有るは敢えて赦さず。帝の臣は蔽わず、簡ぶこと帝の心に在り。朕が躬罪有らば、万方を以てすること無かれ。万方罪有らば、罪は朕が躬に在り。」「周に大賚有り、善人是れ富む。」「周親有りと雖も、仁人に如かず。百姓過ち有らば、予一人に在り。」権量を謹み、法度を審らかにし、廃官を脩むれば、四方の政行われん。滅国を興し、絶世を継ぎ、逸民を挙ぐれば、天下の民心を帰せん。重んずる所は、民・食・喪・祭。寛なれば則ち衆を得、信なれば則ち民任じ、敏なれば則ち功有り、公なれば則ち説ぶ。
-
尚書・康誥惟れ命は常には于いてせず。
-
孟子・梁惠王章句下魯の平公將に出でんとす。嬖人臧倉なる者請うて曰く、「他日、君出づれば、則ち必ず有司に之く所を命ず。今、輿に乘り已に駕す。有司未だ之く所を知らず。敢て請う。」公曰く、「將に孟子を見んとす。」曰く、「何ぞや。君の為す所、身を輕んじて以て匹夫に先だつとは。以て賢と為すか。禮義は賢者由り出づ。而るに孟子の後喪は前喪に踰えたり。君、見る無かれ。」公曰く、「諾。」樂正子、入り見えて曰く、「君、奚為れぞ孟軻を見ざるや。」曰く、「或ひと寡人に告げて曰く、『孟子の後喪は前喪を踰えたり。』是を以て往きて見ざるなり。」曰く、「何ぞや。君の所謂踰ゆとは。前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、後には五鼎を以てしたるか。」曰く、「否。棺槨衣衾の美を謂うなり。」曰く、「所謂踰ゆるには非ざるなり。貧富同じからざればなり。」樂正子、孟子に見えて曰く、「克、君に告ぐ。君、來たり見んと為す。嬖人に臧倉なる者有り、君を沮む。君是を以て來たることを果たさざるなり。」曰く、「行くも之を使しむる或り、止まるも之を尼むる或り。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇わざるは、天なり。臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」
-
孔子家語・五儀解哀公孔子に問いて曰く、「夫れ国家の存亡禍福は、信に天命有りて、唯だ人のみに非ざるか。」孔子対えて曰く、「存亡禍福は、皆己のみ。天災地妖は、加うる能わざるなり。」公曰く、「善いかな。吾子の言、豈に其の事有るか。」孔子曰く、「昔者殷王帝辛の世、雀の大鳥を城隅に生む有り。之を占いて曰く、『凡そ小を以て大を生ずれば、則ち国家必ず王として名必ず昌んならん』と。是に於て帝辛雀の徳を介として、国政を修めず、亢暴極まり無く、朝臣救うこと莫く、外寇乃ち至りて、殷国以て亡ぶ。此れ即ち己を以て天時に逆らい、福を詭りて反りて禍と為す者なり。又其の先世殷王太戊の時、道缺け法圮れ、以て夭櫱・桑穀朝に致し、七日にして大いに拱す。之を占う者曰く、『桑穀は野木にして朝に合生せず、意者国亡びんか』と。太戊恐駭し、身を側めて行を修め、先王の政を思い、養民の道を明らかにす。三年の後、遠方義を慕いて重訳して至る者、十有六国。此れ即ち己を以て天時に逆らい、禍を得て福と為す者なり。故に天災地妖は、人主を儆む所以の者なり。寤夢征怪は、人臣を儆む所以の者なり。災妖は善政に勝たず、寤夢は善行に勝たず。能く此を知る者は、至治の極なり。唯だ明王のみ此に達す。」公曰く、「寡人鄙固此くの如きに、亦た君子の教を聞くを得ざりしなり。」
-
孟子・盡心章句下孟子曰く、「堯・舜は性のままなる者なり。湯・武は之に反るなり。動容周旋、禮に中る者は、盛德の至りなり。死を哭して哀しむは、生者の為に非ざるなり。經德回ならざるは、以て禄を干むるに非ざるなり。言語必ず信なるは、以て行いを正すに非ざるなり。君子は法を行いて、以て命を俟つのみ。」
-
論語・季氏篇孔子曰く、君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして畏れざるなり。大人に狎れ、聖人の言を侮る。