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歎異抄 / 第十二条

あやまって謗る人の候わざらんにこそ、『いかに信ずる人はあれども、謗る人のなきやらん』ともおぼえ候いぬべけれ。 かく申せばとて、必ず人に謗られんとにはあらず。仏のかねて信謗ともにあるべき旨を知ろしめして、『人の疑いをあらせじ』と説きおかせたまうことを申すなり」とこそ候いしか。

書き下し

あやまって謗る人の候わざらんにこそ、『いかに信ずる人はあれども、謗る人のなきやらん』ともおぼえ候いぬべけれ。 かく申せばとて、必ず人に謗られんとにはあらず。仏のかねて信謗ともにあるべき旨を知ろしめして、『人の疑いをあらせじ』と説きおかせたまうことを申すなり」とこそ候いしか。

現代語訳

誤って謗る人がいないとしたら、かえって『これほど信じる人がいるのに、謗る人がいないのはどうしたことか』とさえ思われるはずである。こう申したからといって、必ず人に謗られたいというのではない。仏があらかじめ、信じる者と謗る者がともにあるはずだということをご存知のうえで、『人に疑いを起こさせないため』に説いておかれたことを申しているのである。

解説

謗る者が現れることを、教えが誤っている証拠とは受け取らない。信じる者も謗る者もあるとあらかじめ仏が説いていたのだから、謗る声が出たこと自体が、その言葉の確かさを裏づけている——ここにあるのはそういう受け取り方である。反対されると、人は自分の依って立つものまで揺らいだように感じる。だが親鸞は、反対が現れることまでを織り込み済みの風景として引き受けた。そのうえで、だからといって謗られたいわけではない、と念を押す。批判を歓迎せよという話ではなく、批判があること自体は前提を崩さない、という線引きである。何かを信じて人に伝える立場に立つとき、この区別を持っているかどうかで、揺らぎ方がまるで変わる。

この章句が説くこと

伝えることの難しさ仏恩謗る人の存在

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