玉勝間 / 書を読むは長き旅路を行くが如し
書を讀むは、長き旅路を行くが如し。おもしろからぬ所もおほかるを經行ては、又面白く目さむるここちする浦山にもいたるなり。又足つよき人は、早く、よわきは行く事おそきも、よく似たりとぞ云ひける。おかしき譬へなりかし。
新字:書を読むは、長き旅路を行くが如し。おもしろからぬ所もおほかるを経行ては、又面白く目さむるここちする浦山にもいたるなり。又足つよき人は、早く、よわきは行く事おそきも、よく似たりとぞ云ひける。おかしき譬へなりかし。
書き下し
書を読むは、長き旅路を行くが如し。面白からぬ所も多かるを経行きては、また面白く目さむるここちする浦山にもいたるなり。また足つよき人は、早く、よわきは行く事おそきも、よく似たりとぞ云いける。おかしき譬えなりかし。
現代語訳
書を読むのは、長い旅路を行くようなものだ。面白くもない所をいくつも通り過ぎていくと、また面白く目の覚めるような浦や山にも出る。また足の強い人は早く、弱い人は行くのが遅いのも、よく似ている。そう誰かが言った。面白い譬えである。
解説
読書を旅にたとえた短い一段である。譬えの要点は、面白くない区間があることを前提にしているところだ。旅で退屈な道が続くのは当たり前で、そこを通り過ぎるからこそ次の景色に出る。読書も同じで、詰まらない箇所を飛ばしていては、その先の目の覚める箇所に着かない。そして速さの違いにも触れる。足の強い人は早く、弱い人は遅い。だが遅くても着く。玉勝間には他にも、易しいことを繰り返し確かめてから難しいところに向かえという一段があり、宣長の学びは一貫して、飛ばさないこと・急がないことに置かれている。
この章句が説くこと
書を読むは長き旅路面白からぬ所を経行く足つよき人読書の速さ
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