酔古堂剣掃 / 集法・晝は諸を妻子に觀る
晝觀諸妻子,夜卜諸夢寐。兩者無愧,始可言學。
新字:昼観諸妻子,夜卜諸夢寐。両者無愧,始可言学。
書き下し
晝は諸を妻子に觀、夜は諸を夢寐に卜す。兩者愧づる無くして、始めて學を言ふべし。
現代語訳
昼は、自分の行いを妻や子に接する態度に照らして見ます。夜は、自分の心を夢の中に占ってみます。この二つに恥じるところがなくなって、はじめて学問を語ることができます。
解説
学問の成果は、家庭での態度と夢の中の心に表れると説いた一則です。昼に妻子に観るとは、最も身近で気を許した相手への接し方に、その人の本当の姿が出るということです。夜に夢寐に卜すとは、自分でも抑えられない夢の中にまで、心の乱れや欲が出てこないかを確かめることです。外でどれほど立派に振る舞っても、家族にはわがままで、夢の中では欲にまみれているなら、学問は身についていないと言います。家族に対してどんな顔を見せているかは、自分を省みるよい鏡になるでしょう。
この章句が説くこと
学問修身家族内省慎独
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