酔古堂剣掃 / 集素・一派の山水の清音
聽牧唱樵歌,洗盡五年塵土腸胃;奏繁弦急管,何如一派山水清音。
新字:聴牧唱樵歌,洗尽五年塵土腸胃;奏繁弦急管,何如一派山水清音。
書き下し
牧唱樵歌を聽けば、五年の塵土の腸胃を洗ひ盡す。 繁弦急管を奏するも、何ぞ一派の山水の清音に如かん。
現代語訳
牛飼いの歌や木こりの歌を聞けば、五年のあいだ世俗の塵にまみれた腹の中まで、すっかり洗い流されます。にぎやかな弦楽器や急調子の笛を奏でても、ひとすじの山水の清らかな音にどうして及ぶでしょうか。
解説
素朴な歌声と自然の音を、宴席の華やかな音楽よりも尊ぶ一則です。牧唱樵歌は、牧童や木こりが仕事の合間に口ずさむ飾り気のない歌です。塵土の腸胃は、長く俗世にいて濁った腹の中という強い表現で、それを洗い尽くすという言い方に解放感があります。繁弦急管は、弦を多く重ね笛をせわしなく吹く、宴の賑やかな音楽のことです。一派は、ひとすじの流れを数える言葉で、山から流れ出る水音を指します。技巧を凝らした音より、飾らない声や自然の響きのほうが心の奥まで届くという感覚は、音にあふれた今の生活でこそ見直されてよいでしょう。
この章句が説くこと
自然風雅清貧音楽素朴
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