酔古堂剣掃 / 集峭・假の道學と為らず
寧為真士夫,不為假道學。
新字:寧為真士夫,不為仮道学。
書き下し
寧ろ眞の士夫と為るとも、假の道學と為らず。
現代語訳
むしろ本物の士大夫でありたいものです。偽物の道学者にはなりたくありません。
解説
本物と偽物を短く対にした、集峭らしい一則です。士夫は士大夫、すなわち学問を修め官に仕える知識人のことです。道学は宋代に興った朱子学など性理の学を指しますが、明末には、口では天理や仁義を説きながら行いが伴わない者が多く、「仮道学」と揶揄されました。李卓吾ら明末の思想家も、こうした偽善を激しく批判しています。ここで言う真の士夫とは、看板や言葉ではなく、日々の行いで学問を体現する人でしょう。立派な理念を掲げることより、自分の言葉と行いを一致させることのほうがずっと難しいものです。肩書きではなく中身で生きたいと思わせる句です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
気骨偽善道学修身言行一致
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