酔古堂剣掃 / 集醒・丹の藏する所の者は赤し
丹之所藏者赤,墨之所藏者黑。
新字:丹之所蔵者赤,墨之所蔵者黒。
書き下し
丹の藏する所の者は赤く、墨の藏する所の者は黑し。
現代語訳
朱をしまっておく所は赤く染まり、墨をしまっておく所は黒く染まります。
解説
身を置く環境が人を染めることを、朱と墨にたとえた短い句です。丹は朱色の顔料で、それをしまっておく箱や部屋は、いつの間にか赤く染まります。墨を置く所は黒くなります。『孔子家語』六本篇には、丹を蔵するものは赤く漆を蔵するものは黒い、だから君子は共にいる相手を慎むという一節があり、これを踏まえた句と見られます。「朱に交われば赤くなる」ということわざと同じ趣旨です。人は自分で思う以上に、周りの人や読むもの、見聞きするものの色に染まります。どんな人と時間を過ごし、どんな言葉に囲まれて暮らすかを選ぶことが、そのまま自分を作ることにつながります。

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