酔古堂剣掃 / 集醒・歌舞叢中の淫慾の身
煙雲堆裏浪蕩子,逐日稱仙;歌舞叢中淫慾身,幾時得度?
新字:煙雲堆裏浪蕩子,逐日称仙;歌舞叢中淫慾身,幾時得度?
書き下し
煙雲堆裏の浪蕩子、日を逐ひて仙と稱す。歌舞叢中の淫慾の身、幾時か度を得ん。
現代語訳
霞や雲の立ちこめる中にいる放蕩者は、毎日のように自分を仙人だと称しています。歌や舞のあふれる中にいる淫らな欲望の身は、いったいいつになったら救われるのでしょうか。
解説
世俗を超えたふりをする者と、欲望に溺れる者を並べて皮肉った対句です。煙雲堆裏は、霞や雲が積み重なるような山奥、あるいは酒や煙に酔いしれた場を指します。浪蕩子はふらふらと遊び暮らす放蕩者で、そういう者が毎日自分を仙人のように言いふらしているというのです。歌舞叢中は、歌や踊りの盛んな遊興の場です。度は仏教の言葉で、迷いの世界から悟りの岸へ渡ること、救われることです。そこで欲望にふける者が、いつになったら救われるのかと問いかけます。浮世離れした言葉を口にしながら遊び暮らす者も、欲に溺れる者も、どちらも本当の自由からは遠いのです。言葉と生き方が一致しているか、自分を省みたいものです。
この章句が説くこと
放蕩欲望言行修身戒め
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