酔古堂剣掃 / 集醒・閒言閒語は一筆に勾銷す
古來大聖大賢,寸針相對;世上閒言閒語,一筆勾銷。
新字:古来大聖大賢,寸針相対;世上閒言閒語,一筆勾銷。
書き下し
古來の大聖大賢は、寸針相對す。世上の閒言閒語は、一筆に勾銷す。
現代語訳
昔からの偉大な聖人賢人とは、針の先を合わせるようにぴたりと向き合います。世の中の無駄口やうわさ話は、ひと筆で帳消しにしてしまいます。
解説
向き合うべきものと、切り捨てるべきものを鮮やかに対比した対句です。寸針相対は、針と針の先を合わせるように、ほんのわずかの隙もなく真向かうことです。古の聖賢の言葉には、そのように心を集中して向き合えと言います。一方、閑言閑語、つまり世間の取るに足らない噂話や陰口は、帳簿の記載を一筆で消すように、勾銷、つまり線を引いて帳消しにしてしまえと言います。限られた時間と心の力を、何に注ぎ、何を捨てるかの選択が示されています。私たちは往々にして、どうでもよい噂話には心を奪われ、古典や先人の知恵には上の空になりがちです。その向きを逆にするだけで、日々の充実はずいぶん違ってくるでしょう。
この章句が説くこと
読書聖賢噂集中学問
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