酔古堂剣掃 / 集醒・惟だ能く自ら持する者
居不必無惡隣,會不必無損友,惟能自持者兩得之。
新字:居不必無悪隣,会不必無損友,惟能自持者両得之。
書き下し
居るに必ずしも惡隣無からず、會するに必ずしも損友無からず、惟だ能く自ら持する者のみ兩つながら之を得。
現代語訳
住まいには必ず悪い隣人がいないとは限らず、集まりには必ず害になる友がいないとは限りません。ただ自分をしっかり保てる人だけが、そのどちらからも得るところがあるのです。
解説
悪い環境や付き合いを完全に避けることはできないので、自分を保つことが大切だと説く一則です。悪隣は悪い隣人、損友は付き合うと損になる友で、論語には益者三友、損者三友という言葉があります。どこに住んでも嫌な隣人がいるかもしれず、どんな集まりにも好ましくない人が混じっているかもしれません。環境を選ぶことには限界があります。しかし自分をしっかり持っている人は、悪い隣人からも反面教師として学び、損友とも節度をもって付き合えるので、どちらからも益を得られるのです。職場や地域の人間関係に悩むとき、相手を変えることより、自分の軸を定めることを先に考えてみたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
交友自律処世環境修身
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『呻吟語』内篇・修身・入る所を慎み、接する所を慎む廟に入れば敬を期せずして自ら敬し、朝に入れば肅を期せずして自ら肅たり。是を以て君子は入る所を慎むなり。嚴師を見れば則ち收斂し、狎友を見れば則ち放恣なり。是を以て君子は接する所を慎むなり。
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『墨子』所染子墨子、染絲する者を見て歎じて言いて曰く、「蒼に染むれば則ち蒼く、黄に染むれば則ち黄なり。入るる所の者變ずれば、其の色も亦た變ず。五たび入れて已に五色と為る。故に染は慎まざる可からざるなり」と。
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『講孟余話』滕文公下 第六章「一薛居州、独り宋王を如何せん」。此の章の義極めて明白、比喩極めて的切、而して到底又此の一句に帰す。然れども是れ独り人君の知るべきのみに非ず。卿大夫士に至るまで、争臣争友少なくては、善をなすこと甚だ難し。更に一転して思ふに、心の存する所、身の行ふ所、接する所の事、翫ぶ所の芸、皆善に非ざることなくば、何を以て不善の人たらんや。故に云ふ、「小人間居して不善をなす」と。不善の萌しは必ず無事による者なれば、是れを思ひて、身を孝悌文武の内に漸漬して、他念を生ずるに暇なくすべし。是れ亦荘嶽に置くの意なり。
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孟子・滕文公章句下孟子、戴不勝に謂いて曰く、「子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかに子に告げん。此に楚の大夫有らんに、其の子の齊語せんことを欲すれば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか。楚人をして諸に傅たらしめんか。」曰く、「齊人をして之に傅たらしめん。」曰く、「一齊人之に傅たるも、衆楚人之を咻せば、雖日に撻(むちうつ)ちて其の齊たらんことを求むと雖も、得可からず。引いて之を莊嶽の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其の楚たらんことを求むと雖も、亦た得可からず。子、薛居州を善士と謂い、之をして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王は誰と與にか不善を為さん。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州に非ざれば、王は誰と與にか善を為さん。一薛居州、獨り宋王を如何せん。」 <語釈> ○「咻」、音はキュウ、義はかまびすしくすること。○「莊嶽」、顧炎武云う、莊は是れ街の名、嶽は是れ里の名。