尚書 / 大誥
若考作室,既厎法,厥子乃弗肯堂,矧肯構
書き下し
考室を作るが若く、既に法を厎すも、厥の子乃ち堂を肯えてせず、矧んや構を肯えてせんや。
現代語訳
父が家を建てようとして、すでにその設計・測量を終えていたのに、その子は基礎を築くことさえ引き受けようとしない。まして骨組みを組み立てることなど、なおさら引き受けようとしないだろう。
解説
父親がすでに設計を終えていた家づくりを、その子が土台を築くことさえ引き受けようとしないという情景を通して、先人が積み上げてきたものを継ぐ責任の重さを描いている。仕事にせよ家業にせよ、あるいは受け継いだ地域や役割にせよ、前の担当者が残した土台を前にしたとき、それを面倒だと投げ出すのか、それとも引き受けてさらに築き上げていくのかが、その人の姿勢を分ける。

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肯堂肯構継承責任
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『士規七則』第二則一、凡そ皇国に生れては、宜しく吾が宇内に尊き所以を知るべし。蓋し皇朝は万葉一統にして、邦国の士夫、世々禄位を襲ぐ。人君は民を養ひて以て祖業を続ぎ、臣民は君に忠にして以て父の志を継ぐ。君臣一体、忠孝一致、唯だ吾が国のみ然りと為す。
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『講孟余話』附尾 讀保建大記一條或ひと曰く、「然らば崇徳より後白河の璽を奪ひ取り、後鳥羽より安徳の璽を奪ひ、光厳より後醍醐の璽を奪ひたらば、神器へ附くべきか、正統へ附くべきか」。曰く、「是れ固より正統に附くなり。前に云ふ神器正統一体と云ふは、禅受の正しきを言ふなり、奪ひ取りたることに非ず。神器豈に奪ひて得べき者ならんや。後白河・安徳・後醍醐、万々一も人に奪ひ取らるる様の事ありては、誠に大過なる故、死を以て取り返して止むべきのみ」。或ひと云く、「神器奪ひて得べからざる固より然り。然るに文武天皇の天皇大友を弑して璽を奪ふは如何」。曰く、「是れ古今絶無の事にて、言ふに忍びざることなり。然れども大友已に崩ず、天位一日も空しくすべからざれば、文武の位に即く亦理勢の極まる所なり。但だ此の時に大友に事へたる者は、悉く大友に殉じて節を致すべし、決して生を偸んで文武に事ふべからず、是れ其の義なり」。嗚呼、神器は正統の天子の禅受する所なれば、君臣上下死を以て固守すべきこと、其の義昭々なり。善く此の義を明らかにして後、神器正統一致なること益々昭々なり。故に是れを即位の初めに正しうし、是れを在位の間に守り、是れを譲位の終りに慎む、是れ万世君主の大法なり。三宅の論、又中興鑑言に詳らかなり、併せ考ふべし。
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『甲陽軍鑑』品第四十たとへ信玄が死する跡にて何たる分別なき侍に代をつがするとも三年はたもたん、まへの大将死して三年たもつやうにするは前代の手がらなり、四年目からは後の大将分別よければ、ほまれあしければ恥なり、就中天下の儀二代たもつは、たゝの家百代たもつより弓箭を取てのほまれなりと信玄公の仰られつるを存ずれば、
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『塩鉄論』非鞅篇大夫曰く、秦は商君に任じ、國以て富強なり、其の後卒に六國を幷せて帝業を成す。二世の時に及び、邪臣斷を擅にし、公道行われず、諸侯叛き弛み、宗廟隳亡す。春秋に曰く、『末に爾か言う、祭仲亡ぶればなり』と。夫れ善く歌う者は人をして其の聲を續がしめ、善く作す者は人をして其の功を紹がしむ。椎車の蟬攫は、相土の教えなり。周道の成るは、周公の力なり。裨諶の草創有りと雖も、子產の潤色無く、文・武の規矩有りて、周・呂の鑿枘無ければ、則ち功業成らず。今趙高の秦を亡ぼすを以て商鞅を非るは、猶お崇虎の殷を亂すを以て伊尹を非るがごときなり。
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『春秋左氏伝』昭公二十九年 物に其の官有り對へて曰く、「夫れ物は、物ごとに其の官有り、官其の方を脩め、朝夕之を思ふ。一日職を失へば、則ち死之に及ぶ。官を失へば食まず。官其の業に宿(やす)んずれば、其の物乃ち至る。若し泯(ほろ)ぼし之を棄つれば、物乃ち坻伏し、鬱湮して育たず。故に五行の官有り、是を五官と謂ふ。實に列して氏姓を受け、封じて上公と為し、祀りて貴神と為す。社稷五祀、是れ尊び是れ奉ず。木正を句芒と曰ひ、火正を祝融と曰ひ、金正を蓐收と曰ひ、水正を玄冥と曰ふ。土正を后土と曰ふ。龍は水物なり。水官棄てられたり、故に龍生きながら得られず。然らずんば、周易に之有り、乾の姤に在りて曰く、『潛龍用ゐる勿れ』と。其の同人に曰く、『見龍田に在り』と。其の大有に曰く、『飛龍天に在り』と。其の夬に曰く、『亢龍悔い有り』と。其の坤に曰く、『群龍首無きを見る、吉』と。坤の剝に曰く、『龍野に戰ふ』と。若し朝夕に見ずんば、誰か能く之を物せん」と。獻子曰く、「社稷五祀は、誰氏の五官ぞや」と。
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史記 梁孝王世家今漢の儀法、朝見して正月を賀する者は、常に一王と四侯と倶に朝見し、十余歳にして一たび至る。今梁王常に比年入りて朝見し、久しく留まる。鄙語に曰く「驕子は孝ならず」と、悪言に非ざるなり。故に諸侯王は当に為に良き師傅、相を置くに忠言の士、汲黯・韓長孺等の如く、敢へて直言極諫するをもってすべし、安くんぞ患害有るを得んや。蓋し聞く梁王西のかた入りて朝し、竇太后に謁し、燕見し、景帝と倶に太后の前に侍坐し、語言私説す。太后帝に謂ひて曰く、「吾聞く殷道は親を親しみ、周道は尊を尊ぶ、其の義は一なり。安車大駕、梁の孝王を用て寄と為せ」と。景帝席に跪き身を挙げて曰く、「諾」と。酒を罷めて出で、帝袁盎諸大臣の経術に通ずる者を召して曰く、「太后の言是くの如し、何の謂ひぞや」と。皆対へて曰く、「太后の意は梁王を立てて帝の太子と為さんと欲するなり」と。帝其の状を問ふ、袁盎等曰く、「殷道の親を親しむとは、弟を立つ。周道の尊を尊ぶとは、子を立つ。殷道は質なり、質は天に法り、其の親しむ所を親しむ、故に弟を立つ。周道は文なり、文は地に法り、尊は敬なり、其の本始を敬ふ、故に長子を立つ。周道は、太子死すれば、適孫を立つ。殷道は、太子死すれば、其の弟を立つ」と。帝曰く、「公に於いて何如」と。皆対へて曰く、「方今漢家は周に法る、周道は弟を立つるを得ず、当に子を立つべし。故に春秋の宋の宣公を非とする所以なり。宋の宣公死して、子を立てずして弟に与ふ。弟国を受けて死し、復た之を反して兄の子に与ふ。弟の子之を争ひ、以為へらく我当に父の後に代はるべしと、即ち兄の子を刺殺す。故を以て国乱れ、禍絶えず。故に春秋に曰く『君子は大いに正に居る、宋の禍は宣公之を為す』と。臣請ふ太后に見えて之を白さん」と。袁盎等入りて太后に見ゆ、「太后梁王を立てんと欲すと言ふ、梁王即し終はらば、誰をか立てんと欲する」と。太后曰く、「吾復た帝の子を立てん」と。