商君書 / 賞刑
是父兄、昆弟、知識、婚婣、合同者、皆曰:「務之所加、存戰而已矣。」夫故當壯者務於戰、老弱者務於守、死者不悔、生者務勸。此臣之所謂壹教也。民之欲富貴也、共闔棺而後止。而富貴之門、必出於兵。是故民聞戰而相賀也、起居飲食所歌謠者、戰也。此臣之所謂「明教之猶、至於無教也。」
新字:是父兄、昆弟、知識、婚婣、合同者、皆曰:「務之所加、存戦而已矣。」夫故当壮者務於戦、老弱者務於守、死者不悔、生者務勧。此臣之所謂壱教也。民之欲富貴也、共闔棺而後止。而富貴之門、必出於兵。是故民聞戦而相賀也、起居飲食所歌謡者、戦也。此臣之所謂「明教之猶、至於無教也。」
書き下し
これ父兄、昆弟、知識、婚婣、合同する者、皆な曰く、「務めの加うる所は、戰に存するのみ」と。夫れ故に壯なる者は戰に務め、老弱なる者は守に務め、死する者は悔いず、生ける者は務め勸む。これ臣の所謂る壹教なり。民の富貴を欲するや、共に棺を闔じて而る後に止む。而して富貴の門は、必ず兵より出づ。是の故に民は戰を聞きて相い賀するなり。起居飲食して歌謠する所の者は、戰なり。これ臣の所謂る「明教の猶きは、教無きに至るなり」。
現代語訳
だから父兄も、兄弟も、知人も、姻戚も、集まる者はみな言う。「力を注ぐべきところは、戦いにあるだけだ」と。だから壮年の者は戦いに努め、老人や弱い者は守りに努め、死んだ者は悔いず、生きている者はいっそう励む。これが私のいう教えを一つにするということである。人が富貴を望むのは、棺の蓋を閉じてはじめて止む。そしてその富貴への門は必ず軍功から出る。だから民は戦があると聞いて互いに祝い合う。日常の起居や飲食のあいだに歌っているのも、戦いのことである。これが私のいう「明らかな教えは、教えが要らないところまで行き着く」ということである。
解説
民が戦があると聞いて祝い合い、日常の歌さえ戦いのことになる——教育が完成した状態を、商君書はこう描く。誰も教えていないのに全員が同じ方向を向いている。理念浸透の理想形であると同時に、その恐ろしさも同じ絵の中にある。ここで見ておきたいのは、そこに至った手段だ。標語でも研修でもなく、富貴への門を一つに絞ったことだけである。人が何を歌うかは、何によって報われるかで決まる。社内で語られている話題を聞けば、その会社が実際に何に報いているかが分かる。
この章句が説くこと
民戦を聞きて相い賀す棺を闔じて而る後に止む明教は教無きに至る浸透の完成形組織文化
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