新序 / 雜事第五
宋玉事楚襄王而不見察,意氣不得形於顔色;或謂曰:「先生何談説之不揚,計畫之疑也。」宋玉曰:「不然。子獨不見夫𤣥蝯乎?當其居桂林之中,峻葉之上,從容游戯超騰往來,龍興而鳥集,悲嘯長吟,當此之時,雖羿逢䝉不得正目而視也。及其在枳棘之中也,恐懼而掉慄危視而蹟行,衆人皆得意焉。此皮筋非加急而體益短也,處勢不便故也。夫處勢不便,豈可以量功校能哉?詩不云乎?『駕彼四牡,四牡項領。』夫久駕而長,不得行項領,不亦宜乎?易曰:『臀無膚,其行趦趄。』此之謂也。」
新字:宋玉事楚襄王而不見察,意気不得形於顔色;或謂曰:「先生何談説之不揚,計画之疑也。」宋玉曰:「不然。子独不見夫玄蝯乎?当其居桂林之中,峻葉之上,従容游戯超騰往来,竜興而鳥集,悲嘯長吟,当此之時,雖羿逢䝉不得正目而視也。及其在枳棘之中也,恐懼而掉慄危視而跡行,衆人皆得意焉。此皮筋非加急而体益短也,処勢不便故也。夫処勢不便,豈可以量功校能哉?詩不云乎?『駕彼四牡,四牡項領。』夫久駕而長,不得行項領,不亦宜乎?易曰:『臀無膚,其行趦趄。』此之謂也。」
書き下し
宋玉楚の襄王に事うるも察せられず。意氣顏色に形わるるを得ず。或るひと謂いて曰く、先生何ぞ談説の揚がらず、計畫の疑わしきや、と。宋玉曰く、然らず。子獨り夫の玄猿を見ざるか。其の桂林の中、峻葉の上に居るに當たりては、從容として游戲し、超騰往來し、龍のごとく興り鳥のごとく集まり、悲嘯長吟す。此の時に當たりては、羿・逢蒙と雖も目を正しくして視るを得ざるなり。其の枳棘の中に在るに及びてや、恐懼して掉慄し、危視して蹟行す。衆人皆な意を得たり。此れ皮筋急を加えて體益ミ短きに非ざるなり。處る勢いの便ならざる故なり。夫れ處る勢いの便ならざれば、豈に以て功を量り能を校ぶ可けんや。詩に云わずや、彼の四牡に駕すれば、四牡項領たり、と。夫れ久しく駕して長く、行くを得ざれば項領たるも、亦た宜ならずや。易に曰く、臀に膚無く、其の行くこと趦趄す、と。此の謂いなり、と。
現代語訳
宋玉が楚の襄王に仕えたが認められなかった。気持ちが顔色に出せずにいた。ある人が言った。「先生はどうして話が振るわず、計画も頼りないのですか」。宋玉は言った。「そうではありません。あなたはあの黒い猿をご覧になったことがないのですか。桂の林の中、高い枝の上にいるときは、ゆったりと遊び戯れ、跳ね回り行き来し、龍のように起こり鳥のように集まり、鋭く鳴き長く吟じます。このときは、名手の羿や逢蒙でさえ、まともに目を向けて狙うことができません。ところがそれが枳や棘の中にいるときは、恐れおののいて震え、びくびくと見回して足跡を探るように歩きます。誰もが思うままに捕らえられます。これは皮や筋が急に縮んで体が短くなったのではありません。置かれた勢いが不便だからです。そもそも置かれた勢いが不便であれば、どうしてそれで功を量り能力を比べられましょう。『詩経』にこうあるではありませんか、『あの四頭の牡馬に車をつなげば、四頭の牡馬は首がこわばる』と。そもそも長く車につながれて、行くことができなければ首がこわばるのも、当然ではありませんか。『易』に『尻に肉がなく、その歩みはためらう』とあります。これのことです」。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『塩鉄論』非鞅篇大夫曰く、縞素は自ら緇墨に分かつ能わず、賢聖は自ら亂世に理むる能わず。是を以て箕子は囚を執られ、比干は刑を被る。伍員は闔閭を相けて以て霸たるも、夫差不道にして、流して之を殺す。樂毅は功を燕昭に信ぜらるるも、惠王に疑わる。人臣は節を盡くして以て名に徇うも、世主の用いざるに遭う。大夫種は越王を輔翼し、之が為に深く謀り、卒に強吳を擒にし、據りて東夷を有つも、終に屬鏤を賜いて死す。驕主は恩德に背き、流說を聽き、其の功を計らざる故なり、豈に身の罪ならんや。
-
論語・公冶長篇孟武伯問う、「子路は仁なりや。」子曰く、「知らざるなり。」又問う。子曰く、「由や、千乗の国、其の賦を治めしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」「求や何如。」子曰く、「求や、千室の邑、百乗の家、之が宰たらしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」「赤や何如。」子曰く、「赤や、束帯して朝に立ち、賓客と言わしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」
-
史記 三王世家会々昭帝崩じ、宣帝初めて立つ、恩に縁りて義を行ひ、本始元年中を以て、漢の地を裂き、尽く以て広陵王胥の四子を封ず。一子は朝陽侯と為り、一子は平曲侯と為り、一子は南利侯と為り、最も愛する少子弘は、立てて以て高密王と為す。其の後胥果たして威福を作し、楚王の使者に通ず。楚王宣言して曰く、「我が先の元王は、高帝の少弟なり、三十二城を封ぜらる。今地邑益々少なし、我広陵王と共に兵を発せんと欲すと云ふ。広陵王を立てて上と為し、我復た楚の三十二城に王たること、元王の時の如くせん」と。事発覚し、公卿有司罰誅を行はんことを請ふ。天子骨肉の故を以て、法を胥に致すに忍びず、詔書を下して広陵王を治むる無からしめ、独り首悪の楚王を誅す。伝に曰く「蓬麻中に生ずれば、扶けずして自ら直し。白沙泥中に在れば、之と皆黒し」とは、土地の教化之をして然らしむるなり。其の後胥復た祝詛して謀反し、自殺し、国除かる。燕の土は墝埆にして、北は匈奴に迫り、其の人民勇にして慮少なし、故に之を誡めて曰く「葷粥氏は孝行有る無くして禽獣の心あり、以て窃盗して辺民を侵犯す。朕将軍に詔して往きて其の罪を征せしむ、万夫の長、千夫の長、三十有二君皆来たり、旗を降し師に奔る。葷粥域を徙して遠く処り、北州以て安し」と。「若の心を悉くし、怨みを作す無かれ」とは、俗に従ひて以て怨望せしむる勿かれとなり。「徳を俷る無かれ」とは、王をして徳に背かしむる勿かれとなり。「備へを廃する無かれ」とは、武備を乏しくする無く、常に匈奴に備へよとなり。「教へられし士に非ざれば徴に従ふを得ず」とは、言ふこころは礼義に習ふに非ざれば側に在るを得ずとなり。会々武帝年老い長じ、而して太子不幸にして薨じ、未だ立つる所有らず、而して旦使をして来たりて上書せしめ、身入りて長安に宿衛せんことを請ふ。孝武其の書を見、地を撃ち、怒りて曰く、「子を生まば当に之を斉魯礼義の郷に置くべし、乃ち之を燕趙に置く、果たして争ふ心有り、譲らざるの端見はる」と。
-
『新書』保傅秦に及びて然らず、其の俗は固より辞譲を貴ぶに非ず、上ぶ所は告訏なり。固より礼義を貴ぶに非ず、上ぶ所は刑罰なり。趙高をして胡亥に傅きて之に獄を教えしめ、習う所は人を斬劓するに非ざれば、則ち人の三族を夷するなり。故に今日位に即き、明日人を射、忠諫する者は之を誹謗と謂い、深く之が為に計る者は之を妖言と謂い、其の人を殺すを視ること艾草菅の若く然り。豈に胡亥の性悪ならんや。其の之を集め道く所以の者、理に非ざる故なり。
-
『政談』譜代者の事健かなるものは年の若き内は渡りありき、年よれは辻番なとになり、果は乞食に成り、火付け盗賊をもしたるたくひのものなり、其内に少しじみなるものも年久しく江戸に居、百姓のわざに遠のき麦飯かて物飯をいやに思ふより、奉公の先きにて行合夫婦を拵へ、町へ引き込みぼていをふり一生を送る、是によりて少々年久しく居て家になじみあるものゝ出て入りするも皆軽き町人なり、いとゝさへ御城下は町人の中なるに、身になり為になり其の家になしみありて出て入りする者皆町人なれは、武家の子供皆町人の心根の如くなりゆくもことはりなり、
-
『肝要工夫録』・里と友を選ぶされば、人たるもの、よき里に居り、善友を擇みて、之と親めば、芝蘭の室に入るが如く、久しくして、その香きを知らず、また風俗あしき所に居り、惡人と交れば、鮑魚の肆に入るが如く、久しくして、その臭きことを知らざるが如くなれば、まづ里をゑらび、友を擇んで、常に古人の書をよみ、天より受け得し本の性善に立かへらむことこそ肝要の工夫なるべし、これを以て、古人の敎を和らげ、我人日々の行に手近きことどもを思ひはかりて、善道に導くの一助ともならむかと、拙き辭をかへりみず、その一端を記す。且つ古しへより、忠孝義烈の事を擧げむには、棟木にも滿つべし。その他、善行美事の如きも、記さむと欲すれども、是またかへつて見るにわづらはしかるべきことなれば、ただその要を述ぶるのみ。この書、誤れる事の多かるべければ、見る人、かならずさみすることなくして、改竄を加へて、予が恥かしめを補ひ給へかし。是れもとよりの願なれば、偏へに敎を希ふ而已。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る