新序 / 雜事第二
甘茂,下蔡人也。西入秦,數有功,至武王以為左丞相,樗里子為右丞相。樗里子及公孫子,皆秦諸公子也,其外家韓也,數攻韓。秦武王謂甘茂曰:「寡人欲容車至周室者,其道乎韓之宜陽。」欲使甘茂伐韓取宜陽,以通道至周室。甘茂曰:「請約魏與伐韓。」令向壽輔行。甘茂既約魏許,甘茂還至息壤,謂向壽曰:「子歸言之王,魏聽臣矣,然願王勿伐也。」向壽歸以告王,王迎甘茂於息壤,問其故,對曰:「宜陽,大縣也。名為縣,其實郡也。今王倍數險,行千里攻之難。」
新字:甘茂,下蔡人也。西入秦,数有功,至武王以為左丞相,樗里子為右丞相。樗里子及公孫子,皆秦諸公子也,其外家韓也,数攻韓。秦武王謂甘茂曰:「寡人欲容車至周室者,其道乎韓之宜陽。」欲使甘茂伐韓取宜陽,以通道至周室。甘茂曰:「請約魏与伐韓。」令向寿輔行。甘茂既約魏許,甘茂還至息壤,謂向寿曰:「子帰言之王,魏聴臣矣,然願王勿伐也。」向寿帰以告王,王迎甘茂於息壤,問其故,対曰:「宜陽,大県也。名為県,其実郡也。今王倍数険,行千里攻之難。」
書き下し
甘茂は下蔡の人なり。西のかた秦に入り、數ミ功有り。武王に至りて以て左丞相と爲し、樗里子を右丞相と爲す。樗里子及び公孫子は、皆な秦の諸公子なり。其の外家は韓なり。數ミ韓を攻む。秦の武王甘茂に謂いて曰く、寡人車を容れて周室に至らんと欲す。其の道は韓の宜陽に乎てす、と。甘茂をして韓を伐ちて宜陽を取り、以て道を通じて周室に至らしめんと欲す。甘茂曰く、請う魏と約して與に韓を伐たん、と。向壽をして行を輔けしむ。甘茂既に魏と約して許さる。甘茂還りて息壤に至り、向壽に謂いて曰く、子歸りて之を王に言え。魏は臣に聽けり。然れども願わくは王伐つ勿かれ、と。向壽歸りて以て王に告ぐ。王甘茂を息壤に迎え、其の故を問う。對えて曰く、宜陽は大縣なり。名は縣と爲すも、其の實は郡なり。今王數險に倍き、千里を行きて之を攻むるは難し、と。
現代語訳
甘茂は下蔡の人である。西へ秦に入り、たびたび功があった。武王の代になって左丞相とされ、樗里子が右丞相となった。樗里子と公孫子は、いずれも秦の公子である。その母方は韓であった。秦はたびたび韓を攻めていた。秦の武王が甘茂に言った。「私は車を通して周の王室まで行きたい。その道は韓の宜陽を通ることになる」。甘茂に韓を伐たせて宜陽を取らせ、道を通じて周室まで至らせようとしたのである。甘茂は言った。「どうか魏と約束を結んで、ともに韓を伐たせてください」。向寿を副えて行かせた。甘茂は魏と約束を結んで承諾を得た。甘茂は帰る途中、息壌に至って向寿に言った。「あなたは帰って王にこう言ってください。魏は臣の言うことを聞き入れました。しかし願わくは王よ、伐たないでください、と」。向寿は帰ってそのとおり王に告げた。王は甘茂を息壌に迎え、そのわけを問うた。答えて言った。「宜陽は大きな県です。名は県といっても、実は郡ほどあります。いま王が幾重もの険しい地を背にし、千里を行ってこれを攻めるのは難しいことです」。
解説
この章句が説くこと
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史記 樗里子甘茂列伝秦の武王の三年、甘茂に謂ひて曰く、「寡人、車を容れて三川に通じ、以て周室を窺はんと欲す、而して寡人死すとも朽ちざらん」と。甘茂曰く、「請ふ魏に之き、約して以て韓を伐たん、而して向寿をして輔け行かしめよ」と。甘茂至り、向寿に謂ひて曰く、「子帰りて、これを王に言ひて曰へ、『魏は臣に聴けり、然れども願はくは王伐つこと勿かれ』と。事成らば、尽く以て子の功と為さん」と。向寿帰りて、以て王に告ぐ。王、甘茂を息壌に迎ふ。甘茂至る、王その故を問ふ。対へて曰く、「宜陽は大県なり、上党・南陽これを積むこと久し。名づけて県と曰ふも、その実は郡なり。今、王、数険に倍き、千里を行きてこれを攻むるは難し。昔、曾参の費に処るや、魯人に曾参と姓名を同じくする者有りて人を殺す。人その母に告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、織ること自若たり。頃之くして、一人また告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母尚ほ織ること自若たり。頃くしてまた一人告げて曰く『曾参人を殺せり』と。その母、杼を投じ機を下り、墻を踰えて走る。夫れ曾参の賢とその母のこれを信ずるとを以てするも、三人これを疑へば、その母懼る。今、臣の賢は曾参に若かず、王の臣を信ずることもまた曾参の母の曾参を信ずるに如かず、臣を疑ふ者は特に三人のみに非ず。臣は大王の杼を投ぜんことを恐る。始め張儀、西のかた巴蜀の地を并せ、北のかた西河の外を開き、南のかた上庸を取る。天下は張子を多とせずして先王を賢とす。魏の文侯、楽羊をして将として中山を攻めしむ、三年にしてこれを抜く。楽羊返りて功を論ず、文侯これに謗書一篋を示す。楽羊再拝稽首して曰く、『此れ臣の功に非ざるなり、主君の力なり』と。今、臣は羈旅の臣なり。樗里子・公孫奭の二人の者、韓を挟みてこれを議せば、王必ずこれを聴かん。是れ王は魏王を欺きて、臣は公仲侈の怨みを受くるなり」と。王曰く、「寡人は聴かざるなり、請ふ子と盟はん」と。卒に丞相甘茂をして兵を将ゐて宜陽を伐たしむ。五月にして抜けず、樗里子・公孫奭果たしてこれを争ふ。武王、甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、「息壌は彼に在り」と。王曰く、「これ有り」と。因りて大いに悉く兵を起こし、
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戦国策・秦二・秦武王謂甘茂秦の武王甘茂に謂いて曰わく、「寡人車を三川に通じ、以て周室を闚わんと欲す。而して寡人死すとも杇ちざらんか。」甘茂對えて曰わく、「請う魏に之き、伐韓を約せん。」王向壽をして輔けて行かしむ。甘茂魏に至り、向壽に謂いて曰わく、「子歸りて王に告げて曰え、『魏臣に聽けり、然れども願わくは王攻むる勿かれ』と。事成らば、盡く以て子の功と為さん。」向壽歸りて以て王に告ぐ。王甘茂を息壤に迎う。甘茂至り、王其の故を問う。對えて曰わく、「宜陽は、大縣なり。上黨・南陽之を積むこと久し。名は縣と為すも、其の實は郡なり。今王數險に倍(そむ)き、千里を行きて之を攻む、難し。臣聞く、張儀西のかた巴・蜀の地を并せ、北は西河の外を取り、南は上庸を取るも、天下張儀を多しとせずして先王を賢とすと。魏の文侯樂羊をして將たらしめ、中山を攻めしむ。三年にして之を拔く。樂羊反りて功を語るに、文侯之に謗書一篋を示す。樂羊再拜稽首して曰わく、『此れ臣の功に非ず、主君の力なり』と。今臣は羇旅の臣なり。樗里疾・公孫衍の二人なる者、韓を挾みて議せば、王必ず之を聽かん、是れ王魏を欺きて、臣公仲侈の怨みを受くるなり。昔者曾子費に處り、費人に曾子と名族を同じくする者有りて人を殺す。人曾子の母に告げて曰わく、『曾參人を殺せり』と。曾子の母曰わく、『吾が子人を殺さず』と。織ること自若たり。頃有りて、人又曰わく、『曾參人を殺せり』と。其の母尚お織ること自若たり。之を頃にして、一人又之に告げて曰わく、『曾參人を殺せり』と。其の母懼れ、杼を投じて牆を踰えて走る。夫れ曾參の賢と、母の信とを以てするも、三人之を疑えば、則ち慈母も信ずる能わざるなり。今臣の賢曾子に及ばず、而して王の臣を信ずること又曾子の母に若かず、臣を疑う者三人に適(あた)らず、臣恐らくは王の臣の為に杼を投ぜんことを。」王曰わく、「寡人聽かざるなり、請う子と盟わん。」是に於いて之と息壤に盟う。果たして宜陽を攻む、五月にして拔く能わず。樗里疾・公孫衍の二人在り、王に爭う、王將に之を聽かんとし、甘茂を召して之に告ぐ。甘茂對えて曰わく、「息壤彼に在り。」王曰わく、「之有り。」因りて悉く兵を起こし、復た甘茂をして之を攻めしめ、遂に宜陽を拔く。
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史記 樗里子甘茂列伝甘茂をしてこれを撃たしむ。斬首六万、遂に宜陽を抜く。韓の襄王、公仲侈をして入りて謝せしめ、秦と平らぐ。武王竟に周に至りて、周に卒す。その弟立ち、昭王と為る。王の母宣太后は、楚の女なり。楚の懐王、前に秦の楚を丹陽に敗りて韓の救はざりしを怨み、乃ち兵を以て韓の雍氏を囲む。韓、公仲侈をして急を秦に告げしむ。秦の昭王新たに立ち、太后は楚人なれば、救ふを肯んぜず。公仲、甘茂に因る。茂、韓の為に秦の昭王に言ひて曰く、「公仲は方に秦の救ひを得る有らんとす、故に敢へて楚を捍ぐなり。今、雍氏囲まれ、秦の師殽を下らずんば、公仲且に首を仰ぎて朝せざらんとし、公叔且に国を以て南のかた楚に合せんとす。楚・韓一と為らば、魏氏敢へて聴かずんばあらず、然らば則ち秦を伐つの形成る。識らず、坐して伐たるるを待つと人を伐つの利といづれぞ」と。秦王曰く、「善し」と。乃ち師を殽に下して以て韓を救ふ。楚の兵去る。秦、向寿をして宜陽を平らげしめ、而して樗里子・甘茂をして魏の皮氏を伐たしむ。向寿は宣太后の外族なり、而して昭王と少くして相長ず、故に任用せらる。向寿、楚に如く、楚は秦の向寿を貴ぶを聞きて、厚く向寿に事ふ。向寿、秦の為に宜陽を守り、将に以て韓を伐たんとす。韓の公仲、蘇代をして向寿に謂はしめて曰く、「禽も困しめば車を覆す。公、韓を破り、公仲を辱めしも、公仲は国を収めてまた秦に事へ、自ら以為へらく必ず封ぜらるべしと。今、公は楚と解口の地を与へ、小令尹を封ずるに杜陽を以てす。秦楚合してまた韓を攻めば、韓必ず亡びん。韓亡びば、公仲且に躬ら其の私徒を率ゐて以て秦を閼がんとす。願はくは公これを孰慮せよ」と。向寿曰く、「吾の秦楚を合するは以て韓に当たるに非ざるなり。子、寿の為にこれを公仲に謁げて、秦韓の交は合すべしと曰へ」と。蘇代対へて曰く、「願はくは公に謁ぐる有らん。人曰く、その貴ぶ所以の者を貴ぶ者は貴しと。王の公を愛習するや、公孫奭に如かず。その公を智能とするや、甘茂に如かず。
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史記 樗里子甘茂列伝今、二人の者皆秦の事に親しむを得ずして、公独り王と国に主断するは何ぞや。彼、以てこれを失ふ有ればなり。公孫奭は韓に党し、甘茂は魏に党す、故に王信ぜざるなり。今、秦楚彊を争ひて公は楚に党す、是れ公孫奭・甘茂と道を同じくするなり、公何を以てこれに異ならん。人皆楚の善く変ずるを言ふ、而るに公必ずこれに亡びば、是れ自ら責を為すなり。公は王とその変を謀り、韓を善くして以て楚に備ふるに如かず。此くの如くんば則ち患ひ無からん。韓氏は必ず先に国を以て公孫奭に従ひて後に国を甘茂に委ねん。韓は公の讎なり。今、公、韓を善くして以て楚に備へんと言ふ、是れ外に挙ぐるに讎を僻けざるなり」と。向寿曰く、「然り、吾甚だ韓の合せんことを欲す」と。対へて曰く、「甘茂は公仲に許すに武遂を以てし、宜陽の民を反す。今、公徒らにこれを収めんとするは、甚だ難し」と。向寿曰く、「然らば則ち奈何せん。武遂は終に得べからざるか」と。対へて曰く、「公奚ぞ秦を以て韓の為に潁川を楚に求めざる。此れ韓の寄地なり。公求めてこれを得ば、是れ令楚に行はれて、その地を以て韓に徳とせらるるなり。公求めて得ずんば、是れ韓楚の怨み解けずして、交々秦に走るなり。秦楚彊を争ひ、公徐ろに楚を過めて以て韓を収めば、此れ秦に利あり」と。向寿曰く、「柰何せん」と。対へて曰く、「此れ善き事なり。甘茂は魏を以て斉を取らんと欲し、公孫奭は韓を以て斉を取らんと欲す。今、公、宜陽を取りて以て功と為し、楚韓を収めて以てこれを安んじ、而して斉魏の罪を誅せば、是れ公孫奭・甘茂を以て事無からしむるなり」と。甘茂竟に秦の昭王に言ひ、武遂を以てまたこれを韓に帰す。向寿・公孫奭これを争ふも、得ること能はず。向寿・公孫奭これに由りて怨み、甘茂を讒す。茂懼れ、魏の蒲阪を伐つを輟めて、亡げ去る。樗里子、魏と講じ、兵を罷む。
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『新序』雜事第二魏の文侯樂羊をして將として中山を攻めしむ。三年にして之を拔く。樂羊反りて功を語る。文侯之に謗書一篋を示す。樂羊再拜稽首して曰く、此れ臣の功に非ざるなり。主君の力なり、と。今臣は羈旅なり。樗里子・公孫子の二人韓を挾みて議さば、王必ず之を信ぜん。是れ王魏を欺きて臣は韓の怨みを受くるなり、と。王曰く、寡人聽かざるなり、と。宜陽を伐たしむ。五月にして宜陽未だ拔けず。樗里子・公孫子果たして之を爭う。武王甘茂を召し、兵を罷めんと欲す。甘茂曰く、息壤は彼に在り、と。王曰く、之れ有り、と。因りて悉く兵を起こし、甘茂をして將として之を撃たしめ、遂に宜陽を拔く。武王薨じ、昭王立つに及び、樗里子・公孫子之を讒す。甘茂罪に遇い、卒に齊に奔る。故に至明に非ずんば、其れ孰か能く讒を用うる毋からんや。
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戦国策・甘茂為秦約魏以攻韓宜陽甘茂秦の爲に魏に約して以て韓の宜陽を攻めんとし、又北のかた趙に之く。冷向强國に謂いて曰く、「趙をして甘茂を拘え、出だすこと勿からしめ、以て齊・韓・秦と市するに如かず。齊王宜陽を救わんことを求めんと欲せば、必ず縣狐氏を效さん。韓宜陽を有たんと欲せば、必ず路涉・端氏を以て趙に賂わん。秦王宜陽を得んと欲せば、名寶を愛しまず、且つ茂を拘え、且つ以て公孫赫・樗里疾を置かん。」

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