呻吟語 / 外篇・品藻・伯者の仁義を假りて貪欲を濟す
「遺葛牛羊,亳眾往耕」,似無此事。聖人雖委曲教人,未嘗不以誠心直道交鄰國。桀在則葛非湯之屬國也,奚問其不招,即知其無犧牲矣。亳之牛羊,豈可以常遺葛伯耶?葛豈真無牛羊耶?有亳之眾,自耕不暇,而又使為葛耕,無乃後世市恩好名、沾沾煦煦者之所為乎?不然,葛雖小,亦先王之建國也,寧至無牛羊粢盛哉?即可以供而不祭,當勸諭之矣。或告之天子,以明正其罪矣。何至遺牛羊往為之耕哉?可以不告天子而滅其國,顧可以不教之,自供祭事而代之勞且費乎?不然,是多彼之罪,而我得以藉口也。是伯者,假仁義濟貪欲之所為也。孟子此言,其亦劉太王好貨好色之類與?
新字:「遺葛牛羊,亳眾往耕」,似無此事。聖人雖委曲教人,未嘗不以誠心直道交鄰国。桀在則葛非湯之属国也,奚問其不招,即知其無犠牲矣。亳之牛羊,豈可以常遺葛伯耶?葛豈真無牛羊耶?有亳之眾,自耕不暇,而又使為葛耕,無乃後世市恩好名、沾沾煦煦者之所為乎?不然,葛雖小,亦先王之建国也,寧至無牛羊粢盛哉?即可以供而不祭,当勧諭之矣。或告之天子,以明正其罪矣。何至遺牛羊往為之耕哉?可以不告天子而滅其国,顧可以不教之,自供祭事而代之労且費乎?不然,是多彼之罪,而我得以藉口也。是伯者,仮仁義済貪欲之所為也。孟子此言,其亦劉太王好貨好色之類与?
書き下し
「葛に牛羊を遺り、亳の眾往きて耕す」は、此の事無きに似たり。聖人は委曲して人に教ふと雖も、未だ嘗て誠心直道を以て鄰國に交はらずんばあらず。亳の眾は、自ら耕して暇あらず。而るに又た葛の為に耕さしむるは、乃ち後世の恩を市り名を好み、沾沾煦煦たる者の為す所に非ざらんや。然らずんば、葛は小なりと雖も、亦た先王の建國なり。寧ぞ牛羊粢盛無きに至らんや。是れ彼の罪を多くして、我以て口を藉る可きなり。是れ伯者の仁義を假りて貪欲を濟すの為す所なり。
現代語訳
湯王が葛に牛羊を贈り、亳の民が出向いて耕したという話は、そんな事は無かったように思われます。聖人は回りくどく人を教えることはあっても、誠の心とまっすぐな道で隣国と交わらなかったことはありません。亳の民は自分の畑を耕すのに手一杯です。それをさらに葛のために耕させるのは、後の世の恩を売り名を好み、べたついた者のすることではないでしょうか。そうでなければ、葛は小さくても先王が建てた国です。牛羊も供物の穀物も無いなどということがあるでしょうか。これは相手の罪を増やして、こちらが口実を得るということです。覇者が仁義を借りて貪欲を遂げるやり方です。
解説
この章句が説くこと
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『墨子』節葬下是の故に子墨子曰く、郷に吾が本と言えらく、意うに亦た其の言をして、其の謀を用いて、厚葬久喪を計るに、誠に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からんか。則ち仁なり、義なり、孝子の事なり。人の為に謀る者は、勸めざる可からざるなり。意うに亦た其の言に法り、其の謀を用いて、人の若きの厚葬久喪、實に以て貧を富まし、寡を衆くし、危を定め、亂を治む可からざらんか。則ち仁に非ざるなり、義に非ざるなり、孝子の事に非ざるなり。人の為に謀る者は、沮まざる可からざるなり。是の故に以て國家を富まさんことを求むるも、甚だ貧を得たり。以て人民を衆くせんと欲するも、甚だ寡を得たり。以て刑政を治めんと欲するも、甚だ亂を得たり。以て大國の小國を攻むるを禁止せんことを求むるも、既已に不可なり。以て上帝鬼神の福を千めんと欲するも、又た禍を得たり。上、之を堯舜禹湯文武の道に稽うるに、政、之に逆らう。下、之を桀紂幽厲の事に稽うるに、猶お節を合わするがごとし。若し此を以て觀れば、則ち厚葬久喪は、其れ聖王の道に非ざるなり。
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