呻吟語 / 外篇・品藻・能く四氏を奴僕として其の用と為らず
明道受用處,陰得之佛、老,康節受用處,陰得之莊、列,然作用自是吾儒。蓋能奴僕四氏,而不為其所用者。此語人不敢道,深於佛、老之莊、列者自然默識得。
新字:明道受用処,陰得之仏、老,康節受用処,陰得之荘、列,然作用自是吾儒。蓋能奴僕四氏,而不為其所用者。此語人不敢道,深於仏、老之荘、列者自然黙識得。
書き下し
明道の受用の處は、陰かに之を佛・老に得たり。康節の受用の處は、陰かに之を莊・列に得たり。然れども作用は自ら是れ吾が儒なり。蓋し能く四氏を奴僕として、其の用と為らざる者なり。此の語は人敢へて道はず。佛・老・莊・列に深き者は自然に默識し得ん。
現代語訳
程明道が使いどころとしたのは、ひそかに仏と老から得たものです。邵康節が使いどころとしたのは、ひそかに荘と列から得たものです。しかし働かせ方はやはり儒のものです。四家を召使いとして使い、その用に使われなかったのです。この言葉は誰も口にしません。仏老荘列に深く通じた者なら、自然と黙って理解できるでしょう。
解説
二人の大儒が他派から学んでいたことを、率直に指摘します。ただし借りたのは使いどころで、働かせ方は儒だとします。四家を召使いとするという言い方が要点で、使うか使われるかが分かれ目です。誰も口にしないと断りながら述べる姿勢に、この書の遠慮の無さが表れています。誰も口にしないと断りながら述べる、遠慮の無さが表れています。
この章句が説くこと
明道康節他派主従率直
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