呻吟語 / 内篇・應務・可に當たりて又た跡無し
聖人處事,有變易無方底,有執極不變底,有一事而所處不同底,有殊事而所處一致底,惟其可而已。自古聖人,適當其可者,堯、舜、禹、文、周、孔數聖人而已。當可而又無跡,此之謂至聖。
新字:聖人処事,有変易無方底,有執極不変底,有一事而所処不同底,有殊事而所処一致底,惟其可而已。自古聖人,適当其可者,堯、舜、禹、文、周、孔数聖人而已。当可而又無跡,此之謂至聖。
書き下し
聖人の事に處するは、變易して方無き底有り、執極して變ぜざる底有り、一事にして處する所同じからざる底有り、殊事にして處する所一致なる底有り。惟だ其の可のみ。古より聖人、適に其の可に當たる者は、堯・舜・禹・文・周・孔の數聖人のみ。可に當たりて又た跡無し、此れを之れ至聖と謂ふ。
現代語訳
聖人が事に処するには、変わり続けて定まった形が無いものがあり、極まで守って変えないものがあり、同じ一つの事でも処し方が違うものがあり、別々の事でも処し方が一致するものがあります。ただ、その場でふさわしいかどうかだけです。昔から聖人で、まさにふさわしいところに当たった者は、堯舜禹文王周公孔子の数人だけです。ふさわしく当たり、しかも跡を残さない。これを至聖と言います。
解説
處事の型が四通りあることを示し、どれが正しいかは場面次第だとします。基準はただ一つ、その場でふさわしいかどうか。そのうえで、それができた聖人を六人だけに絞り込みます。さらに上があり、ふさわしく当たって跡を残さない者を至聖と呼ぶ。前の段の、痕跡を残すのは拙工だという主張と、ここでつながります。前の段の、痕跡を残すのは拙工だという主張とつながります。
この章句が説くこと
処事四型可痕跡至聖
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