呻吟語 / 内篇・問學・眾人の發出は都て氣質に落つ
或問:「仁、義、禮、智發而為惻隱、羞惡、辭讓、是非,便是天則否?」曰,「聖人發出來便是天則,眾人發出來都落氣質,不免有太過不及之病。只如好生一念,豈非惻隱?至以面為犧牲,便非天則。」
新字:或問:「仁、義、礼、智発而為惻隠、羞悪、辞譲、是非,便是天則否?」曰,「聖人発出来便是天則,衆人発出来都落気質,不免有太過不及之病。只如好生一念,豈非惻隠?至以面為犠牲,便非天則。」
書き下し
或るひと問ふ、「仁・義・禮・智發して惻隱・羞惡・辭讓・是非と為るは、便ち是れ天則なるか否か」と。曰く、「聖人の發出し來たるは便ち是れ天則なり。眾人の發出し來たるは都て氣質に落ち、太過不及の病有るを免れず。只だ好生の一念の如きは、豈に惻隱に非ずや。面を以て犧牲と為すに至りては、便ち天則に非ず」と。
現代語訳
ある人が問いました。仁義礼智が発して惻隠、羞悪、辞譲、是非となるのは、それが天の則ですか。答えて言う。聖人から発するものは天の則です。普通の人から発するものはみな気質に落ちてしまい、行きすぎか足りないかの病を免れません。たとえば生あるものを好む一念は、惻隠ではないでしょうか。しかし生贄の代わりに小麦粉の細工を用いるまでになれば、それはもう天の則ではありません。
解説
同じ善い心でも、誰から発するかで質が違うと言います。聖人からは天の則として出るが、常人からは気質を通るので行きすぎか不足になる。そして具体例が鋭く、生き物を憐れむあまり祭りの生贄を細工物に替えるのは行きすぎだ、と。善意が形骸に転ぶ地点を、実例で示した一段になっています。善意が形骸に転ぶ地点を、実例で示した一段です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
四端気質行きすぎ善意天則
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