呻吟語 / 内篇・修身・己に處り人に處る兩ながら之を失ふ
坐間皆談笑而我色莊,坐間皆悲感而我色怡,此之謂乖戾,處己處人兩失之。
新字:坐間皆談笑而我色荘,坐間皆悲感而我色怡,此之謂乖戻,処己処人両失之。
書き下し
坐間皆な談笑して我獨り色莊なり、坐間皆な悲感して我獨り色怡ぶ。此れを之れ乖戾と謂ふ。己に處り人に處る、兩ながら之を失ふなり。
現代語訳
一座がみな談笑しているのに自分だけ厳しい顔をし、一座がみな悲しんでいるのに自分だけ嬉しそうにする。これをねじけていると言います。自分の身の置き方も、人への接し方も、両方とも失っているのです。
解説
場に合わせないことを、単なる無作法ではなく乖戾、つまりねじけと呼びます。厳格さを守っているつもりの人が、実は自分の身の置き方まで誤っているという判定が厳しいところです。周りに流されよという話ではありません。笑っている場で笑えず、悲しむ場で悲しめないのは、心が場と通じていない印だということです。前の段で場に染まるなと説いた人が、ここでは場を外すことを戒めています。
この章句が説くこと
場調和乖離作法共感
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