呻吟語 / 内篇・談道・六經は道を言ひて辨ぜず
六經言道而不辨,辨自孟子始;漢儒解經而不論,論自宋儒始;宋儒尊理而不僭,僭自世儒始。
新字:六経言道而不弁,弁自孟子始;漢儒解経而不論,論自宋儒始;宋儒尊理而不僭,僭自世儒始。
書き下し
六經は道を言ひて辨ぜず、辨は孟子より始まる。漢儒は經を解して論ぜず、論は宋儒より始まる。宋儒は理を尊びて僭せず、僭は世儒より始まる。
現代語訳
六経は道を言うだけで論争しません。論争は孟子から始まりました。漢の儒者は経を解釈するだけで論じません。論じることは宋の儒者から始まりました。宋の儒者は理を尊びながら僭越ではありません。僭越は今の儒者から始まりました。
解説
学問の変質が三段で辿られます。言うから論争へ、解釈から議論へ、尊ぶから僭越へ。それぞれの起点が孟子、宋儒、今の儒者と名指しされます。注目したいのは、孟子も宋儒も否定されていない点です。彼らが始めたものが後に行きすぎた、という見方で、最後の僭越だけが同時代の問題として残されています。始めた人を責めず、行きすぎた後世を問うという書き分けが冷静です。
この章句が説くこと
六経孟子宋儒世儒変質
関連する章句
-
『呻吟語』外篇・品藻・漢儒は道を雜へ、宋儒は道を隘くす漢儒は道を雜へ、宋儒は道を隘くす。宋儒は自ら宋儒の局面有り。學者若し道に入らば、且く宋儒を著けて其の胸中に橫たへしむるを休め。只だ六經四書を讀みて之を體玩せば、久久にして胸次自ら是れ同じからず。若し宋儒を看ば、先づ濂溪・明道を看よ。
-
『呻吟語』外篇・品藻・漢儒は精に見る無く、宋儒は大に見る無し道は孔・孟より以後、三代以上の面目を識る人無し。漢儒は精に見る無く、宋儒は大に見る無し。
-
『呻吟語』内篇・談道・同異を毫釐に析つ異端なる者は、本と同じからざるは無くして、端緒の異なる者なり。千古以來、惟だ堯・舜・禹・湯・文・武・孔・孟の一脈のみ是れ正端にして、千古異ならず。佛・老・莊・列・申・韓・管・商を論ずる無く、即ち伯夷・伊尹・柳下惠も、都て是れ異端なり。蓋し端の初めて分かるるや、路に岐有るが如し。未だ分かれざるの初めは都て是れ一處の發腳なり。既に門を出でて後、一股は西南に向かひて走り、一股は東南に向かひて走り、極處に走り到れば、末路梢頭、相去ること幾千萬里なるかを知らず。其の始めは何ぞ嘗て一本ならざらんや。故に學問は同異を毫釐に析つを要す。是れ辨を好むに非ず、末流の哀れむ可きを懼るればなり。
-
『呻吟語』内篇・談道・諸を道に協せて協せば、千聖萬世吻合せざる無し漢唐より下は、議論駁して至理雜なり、吾は宋儒を師とす。宋儒は以て道を明らかにせんことを求めて穿鑿附會の談多く、平正通達の旨を失ふ、吾は先聖の言を師とす。先聖の言は秦火に煨せられ、百家に雜へられ、莠苗朱紫にして、後學をして之を尊信して敢へて異同せざらしむ、吾は道を師とす。苟くも諸を道に協せて協せば、則ち千聖萬世吻合せざる無し。何となれば、道に二無ければなり。
-
『呻吟語』内篇・性命・宋儒の孟子に功有るは宋儒の孟子に功有るは、只だ是れ個の氣質の性を補ひ出だし來たりて、多少の口脗を省くのみ。
-
『呻吟語』外篇・詞章・話言の遺す所聖人の經を作るは、時物を指す者有り、時事を指す者有り、方事を指す者有り、心事を論ずる者有り。當時の精意は身と與に往けり。話言の遺す所は、心の十一を寫す能はず。而るに儒者は後世の事物、一己の意見を以て之を度る。得ざれば則ち強ひて訓詁を為す。嗚呼。