呻吟語 / 内篇・談道・枉木の繩を著くるがごとし
正學不明,聰明才辯之士各枝葉其一隅之見以成一家之說,而道始千岐百徑矣。豈無各得?終是偏術。到孔門,只如枉木著繩,一毫邪氣不得。
新字:正学不明,聰明才弁之士各枝葉其一隅之見以成一家之説,而道始千岐百径矣。豈無各得?終是偏術。到孔門,只如枉木著縄,一毫邪気不得。
書き下し
正學明らかならずんば、聰明才辯の士各〻其の一隅の見を枝葉して以て一家の說を成し、而して道始めて千岐百徑たり。豈に各〻得る無からんや。終に是れ偏術なり。孔門に到れば、只だ枉木の繩を著くるがごとし、一毫の邪氣も得ず。
現代語訳
正しい学問が明らかでなければ、聡明で弁の立つ者がそれぞれ一隅の見方を枝葉に広げて一家の説をなし、道ははじめて千の分かれ道になります。それぞれに得るところが無いわけではありません。しかし結局は偏った術です。孔門に至れば、曲がった木に墨縄を当てるようなもので、わずかの邪な気も許しません。
解説
学派が分かれる仕組みが示されます。正しい学問が明らかでないと、才ある者が自分の一隅の見方を広げて一家の説を作り、道が千に分かれる、と。それぞれに得るところはあると認めつつ、偏った術だと断じます。そして孔門が墨縄にたとえられる。曲がった木に真っすぐな線を引く道具で、判定の基準が一本あることの意味が示されています。
この章句が説くこと
正学一隅一家説偏術縄
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