呻吟語 / 内篇・存心・之を思ひに誠にするが故なり
士君子一出口,無反悔之言;一動手,無更改之事。誠之於思,故也。
書き下し
士君子は一たび口を出でて、反悔の言無し。一たび手を動かして、更改の事無し。之を思ひに誠にするが故なり。
現代語訳
立派な人物は、ひとたび口から出して後悔する言葉がなく、ひとたび手を動かして改め直す事がありません。考える段階で誠を尽くしているからです。
解説
言い直しも手戻りも無い、という理想が示されます。ただしその理由は、口や手が優れているからではありません。考える段階で誠を尽くしているからだ、と。原因が実行より前の工程に置かれているのが要点です。後悔や修正の多さは、思考の段階の手抜きの結果だということになります。前に出てきた、的を見てから弓を引く、という比喩と同じ順序の話です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
言行後悔手戻り思考誠
関連する章句
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『慎思録』巻之六古人曰く、士大夫は真丈夫と為るべし、偽道学と為るべからずと。蓋し偽道学は、是れ名を好むの甚だしき者なり。其の言は道を以て自ら任ずるに似、其の行ひは清修苦節に似て、以て一世を欺くに足る。然れども微の顕るる、誠の掩ふべからざる、久しくして後に自ら著る。然らば則ち何の益かあらん。
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『武士道』第七章 至誠信實・礼に過ぐれば諂いとなる礼もし誠を欠かば諧謔となり、狂言となる。伊達政宗曰はく、『礼に過ぐれば諂ひとなる』と。又た菅公が誠の歌に、『心だに誠の道にかなひなば、祈らずとても神や守らん』とあるは、ポローニアスが、『自から已に誠なるべし。さらば人に誠無き能はず』との訓言に比するに、義はなはだ深し。子思は『中庸』に於て誠を崇め、之れに超自然力を帰し、而も殆ど其力を神明と同視す。『誠は物の終始なり。誠ならざれば物無し。是の故に君子は之を誠にするを貴しと為す』と曰ひ、且つ流麗快達の弁を以て、至誠息むこと無く、悠遠博厚、又た高明、動かさずして変じ、無為にして成すと説く。其旨の深玄にして神秘の妙域に騁するより、人の或は『誠』の一字を解けば、『言』と、完全の義ある『成』との二字より成れるを以て、之を新プラトン学説の『ロゴス』(道)に比儔せんとすることあり。
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『五常訓』巻之五・信賢人以下は、天道聖人の如くならざれども、つとめて此誠を行ふは、是人の力を用ひて行ふ理なれば、人の道なりといへり。誠にあらざれば、天道人道共にたたず。故に孔子も、主忠信とのたまふ。忠信は人の誠、誠之者人の道といへる、是なり。程子も、人道は唯忠信にあり。誠ならざれば物なしといへり。又古語に、五常百行、誠に非ざれば非なり。其実なければ、此名なし。忠信は、即人の誠なり。程子も、己を尽くす之を忠と謂ひ、実を以てする之を信と謂ふといへり。心をつくして残さざるを忠とし、言と行とに実を用ひて、いつはらざるを信と云ふ。心にある誠を忠とし、言行にあらはれたる誠を信と云ふ。
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易経・繋辞上子曰く、「君子其の室に居りて、其の言を出だすに、善なれば則ち千里の外も之に応ず。況んや其の邇(ちか)き者をや。其の室に居りて、其の言を出だすに善ならざれば、則ち千里の外も之に違(たが)う。況んや其の邇き者をや。言は身より出でて、民に加わり、行いは邇きより発して、遠きに見(あら)わる。言行は君子の枢機(すうき)なり。枢機の発するは、栄辱の主なり。言行は、君子の天地を動かす所以なり。慎まざるべけんや」と。
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『学問のすゝめ』十六編・心事と働きと相当すべきの論・功に食ましめて志に食ましめず言行齟齬するとは、議論に言うところと実地に行なうところと一様ならずということなり。「功に食ましめて志に食ましめず」とは、「実地の仕事次第によりてこそ物をも与うべけれ、その心になんと思うとも形もなき人の心事をば賞すべからず」との義なり。また俗間に、「某の説はともかくも、元来働きのなき人物なり」とてこれを軽蔑することあり。いずれも議論と実業と相当せざるを咎めたるものならん。
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『正法眼蔵随聞記』巻六古人の云く、言は天下に満れども口過なく、行天下に遍けれども怨害なしと、是れ即ち云べき所を云ひ、行ふべき事を行ふ故なり、是れは至徳要道の言行なり、世間の言行も、私曲を以てはからひ行ふは、おそらくは過のみあらん、納子の言行は先證是れ定れり、私曲を存ずべからず、仏祖行じ来れる道なり、