呻吟語 / 内篇・性命・惟だ孔子のみ病無し
性者,理氣之總名,無不善之理,無皆善之氣。論性善者,純以理言也;論性惡與善惡混者,兼氣而言也。故經傳言性各各不同,惟孔子無病。
新字:性者,理気之総名,無不善之理,無皆善之気。論性善者,純以理言也;論性悪与善悪混者,兼気而言也。故経伝言性各各不同,惟孔子無病。
書き下し
性とは、理氣の總名なり。不善の理無く、皆善の氣無し。性善を論ずる者は、純ら理を以て言ふなり。性惡と善惡混とを論ずる者は、氣を兼ねて言ふなり。故に經傳の性を言ふは各各同じからず、惟だ孔子のみ病無し。
現代語訳
性とは、理と気をまとめた呼び名です。善くない理というものは無く、すべて善である気というものも無い。性は善だと論じる者は、もっぱら理の側から言っています。性は悪だ、あるいは善悪が混じっていると論じる者は、気を含めて言っています。ですから経書や伝が性について言うことはそれぞれ違っていて、ただ孔子だけに難がありません。
解説
性善説と性悪説の対立が、視点の違いとして解かれます。理だけを見れば善、気を含めて見れば善悪が混じる。孟子も荀子も揚雄も、それぞれ違うところを見ていたにすぎない、と。論争の勝ち負けではなく、何を指して性と呼んでいるかを揃えることで話が終わります。そして孔子だけに難がないと言う。性を相近しと言うにとどめた慎重さへの評価です。
この章句が説くこと
性理気性善視点論争
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