貞観政要 / 文史
貞觀十一年,著作佐郎鄧隆表請編次太宗文章為集。太宗謂曰:「朕若制事出令,有益於人者,史則書之,足為不朽。若事不師古,亂政害物,雖有詞藻,終貽後代笑,非所須也。只如梁武帝父子及陳後主、隋煬帝,亦大有文集,而所為多不法,宗社皆須臾傾覆。凡人主惟在德行,何必要事文章耶?」竟不許。
新字:貞観十一年,著作佐郎鄧隆表請編次太宗文章為集。太宗謂曰:「朕若制事出令,有益於人者,史則書之,足為不朽。若事不師古,乱政害物,雖有詞藻,終貽後代笑,非所須也。只如梁武帝父子及陳後主、隋煬帝,亦大有文集,而所為多不法,宗社皆須臾傾覆。凡人主惟在徳行,何必要事文章耶?」竟不許。
書き下し
貞観十一年、著作佐郎鄧隆、表して太宗の文章を編次して集と為さんことを請う。太宗謂いて曰く、「朕若し事を制し令を出し、人に益有る者は、史は則ち之を書す。不朽と為すに足る。若し事は古を師とせず、政を乱し物を害せば、詞藻有りと雖も、終に後代の笑いを貽(のこ)す。須(もと)むる所に非ざるなり。只だ梁の武帝父子及び陳の後主・隋の煬帝の如きは、亦た大いに文集有り。而して為す所は多く不法なり。宗社は皆な須臾にして傾覆す。凡そ人主は惟だ徳行に在り。何ぞ必ずしも文章を事とせんや」と。竟に許さず。
現代語訳
貞観十一年、著作佐郎の鄧隆が上表して、太宗の文章を編集して文集にしたいと願い出た。太宗は言った。「私がもし政策を定め命令を出して、人に益があるものなら、史書がそれを記す。それで不朽となるに足りる。もし事が古に学ばず、政治を乱し物を害するなら、いくら文章が美しくとも、結局は後世の笑い草を残す。求めるところではない。梁の武帝父子や陳の後主、隋の煬帝も、みな大きな文集を持っていた。しかし行いは多く法に外れ、国家はたちまち覆った。そもそも君主はただ徳行にある。どうして文章を事とする必要があろう」。ついに許さなかった。
解説
この章句が説くこと
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貞観政要・文史貞観の初め、太宗、監修国史房玄齢に謂いて曰く、「比(このごろ)前・後『漢史』を見るに、揚雄の『甘泉』『羽猟』、司馬相如の『子虚』『上林』、班固の『両都』等の賦を載録す。此れ既に文体は浮華にして、勧誡に益無し。何ぞ之を史策に書するを假(か)らんや。其の書を上りて事を論じ、詞理切直にして、政理に裨(おぎな)うべき者有らば、朕の従うと従わざるとを、皆な須らく備さに載すべし」と。
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貞観政要・文史貞観十四年、太宗房玄齢に謂いて曰く、「朕は前代の史書を観る毎に、善を彰らかにし悪を癉(にく)む。将来の規誡と為すに足る。知らず、古より当代の国史は、何に因りて帝王をして親しく之を見しめざるか」と。対えて曰く、「国史は既に善悪必ず書す。庶くは人主をして非法を為さざらしむ。止だ応に旨に忤(さか)らう有るを畏るべし。故に見るを得ざるなり」と。太宗曰く、「朕の意は殊に古人と同じからず。今、自ら国史を看んと欲する者は、蓋し善事有らば、固より論ずるを須(もち)いず。若し不善有らば、亦た以て鑒誡と為し、自ら修改するを得しめんと欲するのみ。卿、撰録して進め来たるべし」と。玄齢等、遂に国史を刪略して編年体と為し、高祖・太宗の実録各二十巻を撰し、表して之を上る。太宗は六月四日の事を見るに、語は微文多し。乃ち玄齢に謂いて曰く、「昔、周公は管・蔡を誅して周室安し。季友は叔牙を鴆して魯国寧し。朕の為す所は、義は此の類に同じ。蓋し社稷を安んじ、万民を利する所以なるのみ。史官の筆を執るに、何ぞ隠す有るを煩わさんや。宜しく即ち浮詞を改削し、直ちに其の事を書すべし」と。侍中魏徴奏して曰く、「臣聞く、人主は位は尊極に居り、忌憚する所無し。惟だ国史有りて、用て悪を懲らし善を勧むと為す。書して実を以てせずんば、後嗣何をか観ん。陛下、今、史官を遣わして其の辞を正さしむ。雅(まさ)に至公の道に合す」と。
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貞観政要・慎言語貞観二年、太宗侍臣に謂いて曰く、「朕は毎日、朝に坐す。一言を出さんと欲すれば、即ち此の一言、百姓に利益有るや否やを思う。多く言うを敢えてせざる所以なり」と。給事中兼知起居事杜正倫進みて曰く、「君の挙は必ず書せられ、言は左史に存す。臣の職は当に兼ねて起居注を修むべし。敢えて愚直を尽くさずんばあらず。陛下若し一言、道理に乖(そむ)かば、則ち千載、聖徳を累(わずら)わす。止(た)だ当今、百姓に損するのみに非ず。願わくは陛下、之を慎め」と。太宗大いに悦び、彩百段を賜う。
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