史記 / 大宛列伝
騫諭使指曰:「烏孫能東居渾邪地,則漢遣翁主為昆莫夫人。」烏孫國分,王老,而遠漢,未知其大小,素服屬匈奴日久矣,且又近之,其大臣皆畏胡,不欲移徙,王不能專制。騫不得其要領。昆莫有十餘子,其中子曰大祿,彊,善將眾,將眾別居萬餘騎。大祿兄為太子,太子有子曰岑娶,而太子蚤死。臨死謂其父昆莫曰:「必以岑娶為太子,無令他人代之。」昆莫哀而許之,卒以岑娶為太子。大祿怒其不得代太子也,乃收其諸昆弟,將其眾畔,謀攻岑娶及昆莫。昆莫老,常恐大祿殺岑娶,予岑娶萬餘騎別居,而昆莫有萬餘騎自備,國眾分為三,而其大總取羈屬昆莫,昆莫亦以此不敢專約於騫。騫因分遣副使使大宛、康居、大月氏、大夏、安息、身毒、于窴、扜穼及諸旁國。烏孫發導譯送騫還,騫與烏孫遣使數十人,馬數十匹報謝,因令窺漢,知其廣大。騫還到,拜為大行,列於九卿。歲餘,卒。烏孫使既見漢人眾富厚,歸報其國,其國乃益重漢。其後歲餘,騫所遣使通大夏之屬者皆頗與其人俱來,於是西北國始通於漢矣。然張騫鑿空,其後使往者皆稱博望侯,以為質於外國,外國由此信之。自博望侯騫死後,匈奴聞漢通烏孫,怒,欲擊之。
新字:騫諭使指曰:「烏孫能東居渾邪地,則漢遣翁主為昆莫夫人。」烏孫国分,王老,而遠漢,未知其大小,素服属匈奴日久矣,且又近之,其大臣皆畏胡,不欲移徙,王不能専制。騫不得其要領。昆莫有十余子,其中子曰大禄,彊,善将衆,将衆別居万余騎。大禄兄為太子,太子有子曰岑娶,而太子蚤死。臨死謂其父昆莫曰:「必以岑娶為太子,無令他人代之。」昆莫哀而許之,卒以岑娶為太子。大禄怒其不得代太子也,乃収其諸昆弟,将其衆畔,謀攻岑娶及昆莫。昆莫老,常恐大禄殺岑娶,予岑娶万余騎別居,而昆莫有万余騎自備,国衆分為三,而其大総取羈属昆莫,昆莫亦以此不敢専約於騫。騫因分遣副使使大宛、康居、大月氏、大夏、安息、身毒、于窴、扜穼及諸旁国。烏孫発導訳送騫還,騫与烏孫遣使数十人,馬数十匹報謝,因令窺漢,知其広大。騫還到,拝為大行,列於九卿。歳余,卒。烏孫使既見漢人衆富厚,帰報其国,其国乃益重漢。其後歳余,騫所遣使通大夏之属者皆頗与其人倶来,於是西北国始通於漢矣。然張騫鑿空,其後使往者皆称博望侯,以為質於外国,外国由此信之。自博望侯騫死後,匈奴聞漢通烏孫,怒,欲撃之。
書き下し
騫、使ひの指(むね)を諭して曰く、「烏孫能く東して渾邪の地に居らば、則ち漢、翁主を遣はして昆莫の夫人と為さん」と。烏孫の国分かれ、王老い、而して漢に遠く、未だ其の大小を知らず。素より匈奴に服属すること日久しく、且つ又之に近く、其の大臣皆胡を畏れ、移徙するを欲せず。王専制すること能はず。騫、其の要領を得ず。昆莫に十余子有り、其の中子を大禄と曰ふ。彊くして善く衆を将ゐ、衆を将ゐて別に万余騎に居る。大禄の兄太子たり。太子に子有り岑娶と曰ふ。而して太子蚤く死す。死に臨みて其の父昆莫に謂ひて曰く、「必ず岑娶を以て太子と為し、他人をして之に代はらしむる無かれ」と。昆莫哀れみて之を許し、卒に岑娶を以て太子と為す。大禄、其の太子に代はるを得ざるを怒り、乃ち其の諸昆弟を収め、其の衆を将ゐて畔(そむ)き、岑娶及び昆莫を攻めんと謀る。昆莫老い、常に大禄の岑娶を殺さんことを恐れ、岑娶に万余騎を予へて別に居らしめ、而して昆莫は万余騎有りて自ら備ふ。国衆分かれて三と為り、而して其の大総は昆莫に羈属す。昆莫も亦此を以て敢へて専ら騫と約せず。騫、因りて副使を分遣して大宛・康居・大月氏・大夏・安息・身毒・于窴・扜穼及び諸旁国に使ひせしむ。烏孫、導訳を発して騫を送り還らしむ。騫、烏孫の遣はす使ひ数十人、馬数十匹と与に報謝し、因りて漢を窺ひて其の広大なるを知らしむ。騫還り到り、拝して大行と為り、九卿に列す。歳余にして卒す。烏孫の使ひ既に漢の人衆く富厚なるを見て、帰りて其の国に報じ、其の国乃ち益々漢を重んず。其の後歳余、騫の遣はす所の大夏の属に通ずる使ひ、皆頗る其の人と俱に来たる。是に於いて西北の国始めて漢に通ず。然れども張騫空を鑿ち、其の後使ひして往く者は皆博望侯と称し、以て外国に質とす。外国是に由りて之を信ず。博望侯騫死して後より、匈奴、漢の烏孫に通ずるを聞き、怒りて之を撃たんと欲す。
現代語訳
張騫は使いの趣旨を告げて言った。「烏孫が東へ移って渾邪の地に住むことができるなら、漢は翁主(皇族の娘)を送って昆莫の夫人としよう」。ところが烏孫の国は分裂しており、王は年老い、しかも漢から遠く、漢の大きさを知らなかった。長く匈奴に服属しており、しかも匈奴に近いので、大臣たちはみな胡を恐れて移住を望まず、王も独断できなかった。張騫はまたも肝心の返事を得られなかった。昆莫には十余人の子があり、その中ほどの子を大禄(たいろく)といった。強く、人々を率いるのが上手で、一万余騎を率いて別に住んでいた。大禄の兄が太子であった。太子には岑娶(しんしゅ)という子がいたが、太子は早くに死んだ。死に臨んで父の昆莫に言った。「必ず岑娶を太子にして、ほかの者に代わらせないでください」。昆莫は哀れんでこれを許し、ついに岑娶を太子とした。大禄は自分が太子に代われなかったことを怒り、兄弟たちを集め、配下を率いて背き、岑娶と昆莫を攻めようと企てた。昆莫は年老いており、いつも大禄が岑娶を殺すのではないかと恐れていたので、岑娶に一万余騎を与えて別に住まわせ、昆莫自身も一万余騎を持って身を守った。国の人々は三つに分かれたが、大筋では昆莫にゆるやかに従っていた。昆莫もそのために、張騫と独断で約束することはできなかった。張騫はそこで副使を手分けして、大宛・康居・大月氏・大夏・安息・身毒・于窴・扜穼および近隣の国々に使いさせた。烏孫は案内と通訳をつけて張騫を送り返した。張騫は烏孫が遣わした使者数十人と馬数十匹を伴って返礼させ、ついでに漢の様子をうかがわせて、その広大さを知らせた。張騫は帰国すると大行(外交を担う官)に任じられ、九卿に列した。一年余りして亡くなった。烏孫の使者は漢の人口の多さと豊かさを見て、帰って国に報告したので、烏孫はますます漢を重んじるようになった。その一年余り後、張騫が大夏などへ派遣していた使者たちが、みな相手国の人を伴って戻ってきた。こうして西北の国々は初めて漢と通じるようになった。張騫は道なき所に道を切り開いた(鑿空)ので、その後西方へ使いに行く者はみな博望侯の名を出し、外国への信用の証とした。外国はそれによって漢の使者を信じた。博望侯張騫が死んでから、匈奴は漢が烏孫と通じたことを聞き、怒って烏孫を攻めようとした。
解説
関連する章句
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史記 大宛列伝其の後二年、漢、単于を幕北に撃ち走らす。是の後、天子数々騫に大夏の属を問ふ。騫既に侯を失ひ、因りて言ひて曰く、「臣、匈奴の中に居りしとき、聞く、烏孫の王を昆莫と号す。昆莫の父は匈奴の西辺の小国なり。匈奴其の父を攻め殺し、而して昆莫生まれて野に棄てらる。烏、肉を嗛(ふく)みて其の上に蜚び、狼往きて之に乳す。単于怪しみて以て神と為し、収めて之を長ぜしむ。壮なるに及び、兵を将ゐしむるに、数々功有り。単于復た其の父の民を以て昆莫に予へ、長く西域を守らしむ。昆莫其の民を収養し、旁の小邑を攻め、控弦数万、攻戦に習ふ。単于死し、昆莫乃ち其の衆を率ゐて遠く徙り、中立して、肯へて匈奴に朝会せず。匈奴奇兵を遣はして撃つも勝たず、以て神と為して之を遠ざけ、因りて之を羈属し、大いには攻めず。今、単于新たに漢に困しみ、而して故の渾邪の地は空しくして人無し。蛮夷の俗は漢の財物を貪る。今誠に此の時を以て厚く幣もて烏孫に賂ひ、招きて以て益々東せしめ、故の渾邪の地に居らしめ、漢と昆弟を結ばば、其の勢ひ宜しく聴くべし。聴かば則ち是れ匈奴の右臂を断つなり。既に烏孫に連ならば、其の西の大夏の属より、皆招来して外臣と為す可し」と。天子以て然りと為し、騫を拝して中郎将と為し、三百人を将ゐしめ、馬各二匹、牛羊は万を以て数へ、金幣帛の直数千巨万を齎(もた)らし、多く節を持つ副使を持たしめ、道の使ひす可きは、使ひして之を他の旁国に遺らしむ。
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史記 大宛列伝今、身毒国又大夏の東南数千里に居りて蜀の物有り。此れ其の蜀を去ること遠からざるなり。今、大夏に使ひするに、羌中よりすれば険にして、羌人之を悪む。少しく北すれば、則ち匈奴の得る所と為る。蜀よりすれば宜しく径なるべく、又寇無し」と。天子既に大宛及び大夏・安息の属は皆大国にして奇物多く、土著にして頗る中国と業を同じくし、而して兵弱く、漢の財物を貴ぶを聞く。其の北には大月氏・康居の属有り、兵彊く、賂遺を以て利を設けて朝せしむ可し。且つ誠に得て義を以て之を属せしめば、則ち地を広むること万里、九訳を重ね、殊俗を致し、威徳四海に遍からん。天子欣然として、騫の言を以て然りと為し、乃ち騫をして蜀の犍為に因りて間使を発せしめ、四道並び出づ。駹より出で、冉より出で、徙より出で、邛・僰より出で、皆各々行くこと一二千里。其の北方は氐・筰に閉ざされ、南方は巂・昆明に閉ざさる。昆明の属は君長無く、寇盗を善くし、輒ち漢の使ひを殺略し、終に通ずるを得る莫し。然れども其の西千余里可りに乗象国有り、名づけて滇越と曰ふと聞く。而して蜀の賈の姦に物を出す者或いは焉に至る。是に於いて漢、大夏の道を求むるを以て始めて滇国に通ず。初め、漢、西南夷に通ぜんと欲するも、費多く道通ぜず、之を罷む。張騫の大夏に通ず可しと言ふに及び、乃ち復た西南夷を事とす。騫、校尉を以て大将軍に従ひて匈奴を撃ち、水草の処を知り、軍以て乏しからざるを得たり。乃ち騫を封じて博望侯と為す。是の歳は元朔六年なり。其の明年、騫、衛尉と為り、李将軍と俱に右北平に出でて匈奴を撃つ。匈奴、李将軍を囲み、軍の失亡多し。而して騫、期に後れて斬に当たり、贖ひて庶人と為る。是の歳、漢、驃騎を遣はして匈奴の西域の数万人を破り、祁連山に至る。其の明年、渾邪王其の民を率ゐて漢に降り、而して金城・河西の西、南山に並びて塩沢に至るまで、空しくして匈奴無し。匈奴時に候者の到る有るも、希なり。
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史記 大宛列伝騫既に烏孫に至るに、烏孫王昆莫漢使に見ゆること単于の礼のごとし、騫大いに慚づ。蛮夷の貪なるを知り、乃ち曰く、「天子の賜を致す、王拝せずんば則ち賜を還さん」と。昆莫起ちて賜を拝す、其の他故のごとし。
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史記 大宛列伝博望侯騫外国の道を開きて以て尊貴なるより、其の後従ふ吏卒皆争ひて上書して外国の奇怪利害を言ひ、使ひを求む。来還するに幣物を侵盗する毋き能はず、及び使ひ指を失ふ。其の吏卒亦た輒ち復た盛んに外国の有る所を推し、大を言ふ者には節を予へ、小を言ふ者には副と為す、故に妄言無行の徒皆争ひて之に効ふ。其の使ひは皆貧人の子、県官の齎物を私し、賤売して以て其の利を私せんと欲す。外国も亦た漢使の人人言に軽重有るを厭ふ。
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史記 大宛列伝匈奴の中に居ること益々寛なり。騫、因りて其の属と亡げて月氏に郷(む)かひ、西に走ること数十日にして大宛に至る。大宛、漢の財に饒かなるを聞き、通ぜんと欲して得ず。騫を見て喜び、問ひて曰く、「若(なんぢ)何くに之かんと欲するか」と。騫曰く、「漢の為に月氏に使ひせんとして、匈奴の道を閉ざす所と為る。今亡げたり。唯だ王、人をして我を導送せしめよ。誠に至るを得て漢に反らば、漢の王に賂遺する財物は勝げて言ふ可からず」と。大宛以て然りと為し、騫を遣はし、為に導繹を発し、康居に抵らしむ。康居伝へて大月氏に致す。大月氏の王已に胡の殺す所と為り、其の太子を立てて王と為す。既に大夏を臣として居り、地肥饒にして寇少なく、志安楽にして、又自ら漢に遠しと以(おも)ひ、殊に胡に報ゆるの心無し。騫、月氏より大夏に至るも、竟に月氏の要領を得ること能はず。留まること歳余にして還り、南山に并(そ)ひ、羌中より帰らんと欲して、復た匈奴の得る所と為る。留まること歳余、単于死し、左谷蠡王、其の太子を攻めて自ら立ち、国内乱る。騫、胡妻及び堂邑父と俱に亡げて漢に帰る。漢、騫を拝して太中大夫と為し、堂邑父を奉使君と為す。
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史記 大宛列伝外国も亦漢使の人人言有りて軽重するに厭き、漢の兵遠くして至る能はずと度り、而して其の食物を禁じて以て漢使を苦しむ。漢使乏絶して怨みを積み、相攻撃するに至る。而して楼蘭・姑師は小国のみなれども、空道に当たり、漢使王恢等を攻劫すること尤も甚だし。而して匈奴の奇兵時時西国に使ひする者を遮撃す。使者争ひて遍く外国の災害を言ひ、皆城邑有れども、兵弱く撃ち易しと。是に於いて天子故を以て従驃侯破奴を遣はし、属国の騎及び郡兵数万を将ゐて匈河水に至り、以て胡を撃たんと欲せしむるも、胡皆去る。其の明年、姑師を撃ち、破奴、軽騎七百余と先づ至り、楼蘭王を虜にし、遂に姑師を破る。因りて兵威を挙げて以て烏孫・大宛の属を困しむ。還りて破奴を封じて浞野侯と為す。王恢数々使ひし、楼蘭の苦しむる所と為り、天子に言ふ。天子兵を発して恢をして破奴を佐けて之を撃破せしめ、恢を封じて浩侯と為す。是に於いて酒泉より亭鄣を列ねて玉門に至る。烏孫、千匹の馬を以て漢女を聘す。漢、宗室の女江都翁主を遣はして往きて烏孫に妻(めあ)はす。烏孫王昆莫、以て右夫人と為す。匈奴も亦女を遣はして昆莫に妻はす。昆莫以て左夫人と為す。昆莫曰く、「我老いたり」と。乃ち其の孫岑娶をして翁主を妻らしむ。烏孫は馬多く、其の富人は四五千匹の馬を有するに至る。初め、漢使安息に至るや、安息王、二万騎を将ゐて東界に迎へしむ。東界は王都を去ること数千里。行きて至る比(ころ)、数十城を過ぎ、人民相属して甚だ多し。漢使還るや、而して後に使ひを発して漢使に随ひて来たり漢の広大を観しめ、大鳥の卵及び黎軒の善眩人を以て漢に献ず。宛の西の小国驩潜・大益、宛の東の姑師・扜穼・蘇薤の属に及ぶまで、皆漢使に随ひて献見し天子に見ゆ。天子大いに悦ぶ。
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