史記 / 范雎蔡沢列伝
范睢者、魏人也、字叔。須賈為魏昭王使於齊、范睢從。齊襄王聞睢辯口、乃使人賜睢金十斤及牛酒。須賈知之、大怒、以為睢持魏國陰事告齊。既歸、以告魏相魏齊。魏齊大怒、使舍人笞擊睢、折脅摺齒。睢詳死、即卷以簀、置廁中。賓客飲者醉、更溺睢、故僇辱以懲後。睢從簀中謂守者曰、公能出我、我必厚謝公。守者乃請出棄簀中死人。魏齊醉曰、可矣。范睢得出。魏人鄭安平聞之、乃遂操范睢亡、伏匿、更名姓曰張祿。
新字:范睢者、魏人也、字叔。須賈為魏昭王使於斉、范睢従。斉襄王聞睢辯口、乃使人賜睢金十斤及牛酒。須賈知之、大怒、以為睢持魏国陰事告斉。既歸、以告魏相魏斉。魏斉大怒、使舎人笞擊睢、折脅摺齒。睢詳死、即巻以簀、置廁中。賓客飲者酔、更溺睢、故僇辱以懲後。睢従簀中謂守者曰、公能出我、我必厚謝公。守者乃請出棄簀中死人。魏斉酔曰、可矣。范睢得出。魏人鄭安平聞之、乃遂操范睢亡、伏匿、更名姓曰張祿。
書き下し
范睢は、魏人なり、字は叔。須賈魏の昭王の為に斉に使ひし、范睢従ふ。斉の襄王睢の弁口を聞き、乃ち人をして睢に金十斤及び牛酒を賜はしむ。須賈之を知り、大いに怒り、以て睢魏国の陰事を持して斉に告ぐと為す。既に帰り、以て魏の相魏齊に告ぐ。魏齊大いに怒り、舍人をして睢を笞撃せしめ、脅を折り歯を摺(くだく)く。睢詳(いつわ)りて死し、即ち巻くに簀を以てし、厠中に置く。賓客の飲む者酔ひ、更る更る睢に溺す、故らに僇辱して以て後を懲らす。睢簀中より守る者に謂ひて曰く、「公能く我を出ださば、我必ず厚く公に謝せん」と。守る者乃ち簀中の死人を出だし棄てんことを請ふ。魏齊酔ひて曰く、「可なり」と。范睢出づるを得たり。魏人鄭安平之を聞き、乃ち遂に范睢を操りて亡げ、伏匿し、名姓を更へて張祿と曰ふ。
現代語訳
「どん底の屈辱と絶望から、機知で生き延び、再起する」——後に秦の宰相となる范雎の、壮絶な出発点を描いた一段です。范雎は無実の疑い(機密を敵国に漏らしたという濡れ衣)をかけられ、魏の宰相・魏齊の命令で、あばら骨を折られ歯を砕かれるほど激しく打たれました。彼は死んだふりをし、簀(すのこ)に巻かれて便所に捨てられ、酔った客たちに小便をかけられるという、これ以上ない辱めを受けます。しかし范雎は諦めませんでした。簀の中から見張りに「私を助け出してくれれば、必ず厚く礼をする」と持ちかけ、見張りが「死体を捨てましょう」と願い出て、酔った魏齊が「よかろう」と許した隙に、脱出に成功します。そして知人の助けで身を隠し、「張祿」と名を変えて再起の機会をうかがったのです。ここに、逆境からの再起の要諦があります。第一に、絶望的な状況でも、諦めずに活路を探る執念。死を装って命をつなぎ、見張りを説得して脱出する——極限の中でも冷静に頭を働かせ、わずかな可能性に賭けた。第二に、屈辱を、恨みや自滅ではなく、再起へのエネルギーに変えたこと。范雎はこの屈辱を胸に刻み、後に秦で大成して雪辱を果たします(後段)。どん底の屈辱は、人を打ちのめして終わらせることもあれば、発奮の燃料になることもある。第三に、名を変えて雌伏したこと。すぐに復讐に走らず、身を隠して力を蓄え、機会を待った。組織や人生で、理不尽な仕打ちや大きな挫折に直面したとき、絶望に飲み込まれず、命(立場)をつなぎ、屈辱を発奮に変えて、力を蓄えながら再起の機会を待つ——范雎の不屈の出発は、逆境を乗り越える人間の強さを示しています。