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史記 / 絳侯周勃世家

籍已死,因東定楚地泗水、東海郡,凡得二十二縣。還守雒陽、櫟陽,賜與潁陰侯共食鐘離。以將軍從高帝反者燕王臧荼,破之易下。所將卒當馳道為多。賜爵列侯,剖符世世勿絕。食絳八千一百八十戶,號絳侯。以將軍從高帝擊反韓王信於代,降下霍人。以前至武泉,擊胡騎,破之武泉北。轉攻韓信軍銅鞮,破之。還,降太原六城。擊韓信胡騎晉陽下,破之,下晉陽。後擊韓信軍於硰石,破之,追北八十里。還攻樓煩三城,因擊胡騎平城下,所將卒當馳道為多。勃遷為太尉。擊陳豨,屠馬邑。所將卒斬豨將軍乘馬絺。擊韓信、陳豨、趙利軍於樓煩,破之。得豨將宋最、鴈門守圂。因轉攻得雲中守遬、丞相箕肆、將勳。定鴈門郡十七縣,雲中郡十二縣。因復擊豨靈丘,破之,斬豨,得豨丞相程縱、將軍陳武、都尉高肆。定代郡九縣。燕王盧綰反,勃以相國代樊噲將,擊下薊,得綰大將抵、丞相偃、守陘、太尉弱、御史大夫施,屠渾都。破綰軍上蘭,復擊破綰軍沮陽。追至長城,定上谷十二縣,右北平十六縣,遼西、遼東二十九縣,漁陽二十二縣。最從高帝得相國一人,丞相二人,將軍、二千石各三人;別破軍二,下城三,定郡五,縣七十九,得丞相、大將各一人。

新字:籍已死,因東定楚地泗水、東海郡,凡得二十二県。還守雒陽、櫟陽,賜与潁陰侯共食鐘離。以将軍従高帝反者燕王臧荼,破之易下。所将卒当馳道為多。賜爵列侯,剖符世世勿絶。食絳八千一百八十戸,号絳侯。以将軍従高帝撃反韓王信於代,降下霍人。以前至武泉,撃胡騎,破之武泉北。転攻韓信軍銅鞮,破之。還,降太原六城。撃韓信胡騎晋陽下,破之,下晋陽。後撃韓信軍於硰石,破之,追北八十里。還攻楼煩三城,因撃胡騎平城下,所将卒当馳道為多。勃遷為太尉。撃陳豨,屠馬邑。所将卒斬豨将軍乗馬絺。撃韓信、陳豨、趙利軍於楼煩,破之。得豨将宋最、鴈門守圂。因転攻得雲中守遬、丞相箕肆、将勲。定鴈門郡十七県,雲中郡十二県。因復撃豨霊丘,破之,斬豨,得豨丞相程縦、将軍陳武、都尉高肆。定代郡九県。燕王盧綰反,勃以相国代樊噲将,撃下薊,得綰大将抵、丞相偃、守陘、太尉弱、御史大夫施,屠渾都。破綰軍上蘭,復撃破綰軍沮陽。追至長城,定上谷十二県,右北平十六県,遼西、遼東二十九県,漁陽二十二県。最従高帝得相国一人,丞相二人,将軍、二千石各三人;別破軍二,下城三,定郡五,県七十九,得丞相、大将各一人。

書き下し

籍已に死し、因りて東のかた楚の地の泗水・東海郡を定め、凡そ二十二県を得。還りて雒陽・櫟陽を守り、潁陰侯と共に鍾離を食むことを賜はる。将軍を以て高帝に従ひて反する者燕王臧荼を撃ち、之を易の下に破る。将ゐる所の卒の馳道に当たること多しと為す。爵列侯を賜はり、符を剖きて世世絶ゆること勿からしむ。絳の八千一百八十戸を食み、絳侯と号す。将軍を以て高帝に従ひて反せる韓王信を代に撃ち、霍人を降し下す。以て前みて武泉に至り、胡騎を撃ち、之を武泉の北に破る。転じて韓信の軍を銅鞮に攻め、之を破る。還りて、太原の六城を降す。韓信の胡騎を晋陽の下に撃ち、之を破り、晋陽を下す。後に韓信の軍を硰石に撃ち、之を破り、北ぐるを追ふこと八十里。還りて楼煩の三城を攻め、因りて胡騎を平城の下に撃つ、将ゐる所の卒の馳道に当たること多しと為す。勃遷りて太尉と為る。陳豨を撃ち、馬邑を屠る。将ゐる所の卒豨の将軍乗馬絺を斬る。韓信・陳豨・趙利の軍を楼煩に撃ち、之を破る。豨の将宋最、鴈門の守圂を得。因りて転じて攻めて雲中の守遬、丞相箕肆、将勲を得。鴈門郡十七県、雲中郡十二県を定む。因りて復た豨を霊丘に撃ち、之を破り、豨を斬り、豨の丞相程縦、将軍陳武、都尉高肆を得。代郡九県を定む。燕王盧綰反し、勃相国を以て樊噲に代はりて将たり、撃ちて薊を下し、綰の大将抵、丞相偃、守陘、太尉弱、御史大夫施を得、渾都を屠る。綰の軍を上蘭に破り、復た撃ちて綰の軍を沮陽に破る。追ひて長城に至り、上谷十二県、右北平十六県、遼西・遼東二十九県、漁陽二十二県を定む。最も高帝に従ひて相国一人、丞相二人、将軍・二千石各三人を得。別に軍二を破り、城三を下し、郡五、県七十九を定め、丞相・大将各一人を得。

現代語訳

項籍(項羽)が死ぬと、周勃はそのまま東へ進んで楚の地の泗水郡・東海郡を平定し、合わせて二十二県を得た。引き返して雒陽・櫟陽を守り、潁陰侯(灌嬰)とともに鍾離を食邑とすることを許された。将軍として高帝に従い、謀反した燕王臧荼(ぞうと)を撃ち、易のもとで破った。率いた兵が天子の通る馳道(ちどう)の守りに当たった功が多かった。列侯の爵を賜り、割符を分けて代々絶えることがないと約された。絳の八千百八十戸を食邑とし、絳侯と号した。将軍として高帝に従い、背いた韓王信を代で撃ち、霍人を降した。進んで武泉に至り、匈奴の騎兵を撃って武泉の北で破った。転じて銅鞮で韓王信の軍を攻めて破った。引き返して太原の六つの城を降した。晋陽のもとで韓王信の率いる匈奴騎兵を撃ち破り、晋陽を下した。のちに硰石で韓王信の軍を撃ち破り、逃げる敵を八十里追った。引き返して楼煩の三城を攻め、そのまま平城のもとで匈奴騎兵を撃ったが、このときも率いた兵が馳道の守りに当たった功が多かった。勃は昇進して太尉(軍の最高官)となった。陳豨(ちんき)を撃ち、馬邑を皆殺しにした。勃の率いる兵は陳豨の将軍乗馬絺(じょうばち)を斬った。楼煩で韓王信・陳豨・趙利の軍を撃ち破った。陳豨の将宋最と鴈門の太守圂(こん)を捕らえた。転じて攻め、雲中の太守遬(そく)、丞相箕肆(きし)、将の勲を捕らえた。鴈門郡十七県、雲中郡十二県を平定した。さらに霊丘で陳豨を撃ち破り、陳豨を斬り、その丞相程縦・将軍陳武・都尉高肆を捕らえた。代郡九県を平定した。燕王盧綰(ろわん)が背くと、勃は相国として樊噲(はんかい)に代わって将となり、撃って薊を下し、盧綰の大将抵、丞相偃、太守陘、太尉弱、御史大夫施を捕らえ、渾都を皆殺しにした。上蘭で盧綰の軍を破り、さらに沮陽で破った。追って長城に至り、上谷十二県、右北平十六県、遼西・遼東二十九県、漁陽二十二県を平定した。高帝に従っての功を総計すると、相国一人、丞相二人、将軍と二千石の官を各三人捕らえた。別働隊としては軍を二つ破り、城を三つ下し、郡を五つ、県を七十九平定し、丞相と大将を各一人捕らえた。

解説

項羽の死後、周勃が燕王臧荼、韓王信、陳豨、盧綰と、漢初に相次いだ異姓諸侯や辺将の反乱をことごとく鎮めていった戦歴です。天下統一の後も、漢王朝はすぐには安定せず、北では匈奴と結んだ反乱が繰り返されました。周勃はその火消し役として北辺を転戦し、最後に功績の総計が数字で示されます。司馬遷は曹参や樊噲の世家・列伝でも同じ「得た首級と平定した県数」の書式を用いており、これは漢の功臣の記録簿に基づく書き方と考えられています。統一後の守りの仕事は地味ですが、組織を潰さないためには不可欠です。立ち上げの功労者が、その後の安定化の局面でも黙々と働き続けたことが、周勃への高祖の信頼を決定づけました。

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