説苑 / 善說
趙簡子問子貢曰:「孔子為人何如?」子貢對曰:「賜不能識也。」簡子不說曰:「夫子事孔子數十年,終業而去之,寡人問子,子曰不能識,何也?」子貢曰:「賜譬渴者之飲江海,知足而已,孔子猶江海也,賜則奚足以識之。」簡子曰:「善哉!子貢之言也。」
新字:趙簡子問子貢曰:「孔子為人何如?」子貢対曰:「賜不能識也。」簡子不説曰:「夫子事孔子数十年,終業而去之,寡人問子,子曰不能識,何也?」子貢曰:「賜譬渴者之飲江海,知足而已,孔子猶江海也,賜則奚足以識之。」簡子曰:「善哉!子貢之言也。」
書き下し
趙簡子子貢に問いて曰く、「孔子の人と爲り何如。」子貢對えて曰く、「賜識ること能わざるなり。」簡子說ばずして曰く、「夫子孔子に事うること數十年、業を終えて之を去る。寡人子に問うに、子識ること能わずと曰う、何ぞや。」子貢曰く、「賜譬えば渴する者の江海を飲むがごとし、足るを知るのみ。孔子は猶お江海のごときなり、賜則ち奚ぞ以て之を識るに足らんや。」簡子曰く、「善いかな、子貢の言や。」
現代語訳
趙の簡子が子貢に尋ねた。『孔子という人物はどのような人か。』子貢は答えた。『私、賜には知り尽くすことができません。』簡子は不満そうに言った。『あなたは孔子に数十年も仕え、学業を終えてから彼のもとを去ったのに、私が尋ねると「知ることができない」と言う。どういうことか。』子貢は言った。『私はたとえて言えば、喉の渇いた者が長江や海の水を飲むようなものです。ただ自分が満足するだけの分を知るのみです。孔子はまさに長江や海のような存在であり、私ごときがどうしてその全てを知り尽くせましょうか。』簡子は言った。『なるほど、子貢の言葉はもっともだ。』
解説
数十年仕えた師について「知らない」と答える子貢の言葉は、無知の告白ではなく、孔子という存在の大きさが一個人の理解の器を超えていることを謙虚に認めるものである。長江や海の喩えは、いくら飲んでもその全体量を知り尽くせないという比喩によって、偉大な人物や学問の奥深さは部分的にしか汲み取れないという真実を的確に言い当てている。自分の理解の限界を率直に認めながらも、それでもなお学び続ける姿勢は、真に優れた師や学問に対する謙虚さの模範として現代にも通じる。
この章句が説くこと
謙虚師の器量学びの限界
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