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説苑 / 善說

孫卿曰:「夫談說之術,齊莊以立之,端誠以處之,堅強以持之,譬稱以諭之,分別以明之,歡欣憤滿以送之,寶之珍之,貴之神之,如是則說常無不行矣。」夫是之謂能貴其所貴。傳曰:「唯君子為能貴其所貴也。」詩云:「無易由言,無曰苟矣。」鬼谷子曰:「人之不善而能矯之者難矣。說之不行,言之不從者,其辯之不明也;既明而不行者,持之不固也;既固而不行者,未中其心之所善也。辯之明之,持之固之,又中其人之所善,其言神而珍,白而分,能入於人之心,如此而說不行者,天下未嘗聞也。此之謂善說。」子貢曰:「出言陳辭,身之得失,國之安危也。」詩云:「辭之繹矣,民之莫矣。」夫辭者人之所以自通也。主父偃曰:「人而無辭,安所用之。」昔子產脩其辭,而趙武致其敬;王孫滿明其言,而楚莊以慚;蘇秦行其說,而六國以安;蒯通陳說,而身得以全。夫辭者乃所以尊君、重身、安國、全性者也。故辭不可不脩而說不可不善。

新字:孫卿曰:「夫談説之術,斉荘以立之,端誠以処之,堅強以持之,譬称以諭之,分別以明之,歓欣憤満以送之,宝之珍之,貴之神之,如是則説常無不行矣。」夫是之謂能貴其所貴。伝曰:「唯君子為能貴其所貴也。」詩云:「無易由言,無曰苟矣。」鬼谷子曰:「人之不善而能矯之者難矣。説之不行,言之不従者,其弁之不明也;既明而不行者,持之不固也;既固而不行者,未中其心之所善也。弁之明之,持之固之,又中其人之所善,其言神而珍,白而分,能入於人之心,如此而説不行者,天下未嘗聞也。此之謂善説。」子貢曰:「出言陳辞,身之得失,国之安危也。」詩云:「辞之繹矣,民之莫矣。」夫辞者人之所以自通也。主父偃曰:「人而無辞,安所用之。」昔子産脩其辞,而趙武致其敬;王孫満明其言,而楚荘以慚;蘇秦行其説,而六国以安;蒯通陳説,而身得以全。夫辞者乃所以尊君、重身、安国、全性者也。故辞不可不脩而説不可不善。

書き下し

孫卿曰く、「夫れ談說の術は、齊莊以て之を立て、端誠以て之に處り、堅強以て之を持し、譬稱以て之を諭し、分別以て之を明らかにし、歡欣憤滿以て之を送り、之を寶とし之を珍とし、之を貴び之を神とす。是くの如くんば則ち說常に行なわれざる無し。」夫れ是を之れ能く其の貴ぶ所を貴ぶと謂う。傳に曰く、「唯だ君子のみ能く其の貴ぶ所を貴ぶを爲す。」詩に云う、「言に易きこと無く、苟しくもすと曰う無かれ。」鬼谷子曰く、「人の不善にして能く之を矯むる者は難し。說の行なわれざる、言の從われざるは、其の辯の明らかならざればなり。既に明らかにして行なわれざるは、之を持すること固からざればなり。既に固くして行なわれざるは、未だ其の心の善しとする所に中らざればなり。之を辯じ之を明らかにし、之を持し之を固くし、又た其の人の善しとする所に中れば、其の言神にして珍、白にして分、能く人の心に入る。此くの如くにして說行なわれざる者は、天下未だ嘗て聞かざるなり。此れを之れ善說と謂う。」子貢曰く、「言を出だし辭を陳ぶるは、身の得失、國の安危なり。」詩に云う、「辭の繹たる、民の莫たる。」夫れ辭なる者は人の自ら通ずる所以なり。主父偃曰く、「人にして辭無くんば、安んぞ之を用いん。」昔子產は其の辭を脩めて、趙武は其の敬を致し、王孫滿は其の言を明らかにして、楚莊は以て慚じ、蘇秦は其の說を行いて、六國は以て安く、蒯通は說を陳べて、身は以て全きを得たり。夫れ辭なる者は乃ち君を尊び、身を重んじ、國を安んじ、性を全うする所以の者なり。故に辭は脩めざるべからず、而して說は善くせざるべからず。

現代語訳

荀子は言った。『そもそも弁論の術は、厳粛な態度でその立場を確立し、誠実さで自らを処し、強い意志でそれを保持し、比喩や引用で相手を理解させ、分析によって道理を明らかにし、喜びや情熱をもって話を締めくくり、言葉を宝のように大切にし、貴び神聖なものとして扱う。このようにすれば、説得はいつでも通じないことがない。』これを『自らが尊ぶべきものを尊ぶ』というのである。ある伝には『ただ君子だけが、尊ぶべきものを尊ぶことができる』とある。詩経には『言葉を軽々しく発するな、いい加減であってはならない』とある。鬼谷子は言った。『不善な人を正すのは難しい。説得が通じず、言葉が受け入れられないのは弁舌が明晰でないからだ。すでに明晰なのに通じないのは、主張の保持が固くないからだ。すでに固いのに通じないのは、まだ相手の心が善しとするところに当たっていないからだ。弁舌を明晰にし、主張を固く保持し、さらに相手の善しとするところに当てはまれば、その言葉は神秘的で貴重、明白かつ筋道立っており、よく人の心に入り込む。このようにして説得が通じないということは、天下いまだかつて聞いたことがない。これを「善説」という。』子貢は言った。『言葉を発し辞令を述べることは、その身の得失であり、国の安危にかかわることだ。』詩経には『言葉が筋道立っていれば、民は安定する』とある。そもそも言葉とは人が自分の思いを人に通じさせる手段である。主父偃は言った。『人として言葉がなければ、何の役に立とうか。』昔、子産はその言葉を磨き上げ、趙の武はその敬意を尽くした。王孫満はその言葉を明晰にし、楚の荘王はそれによって恥じ入った。蘇秦はその遊説を行って六国は安定を得た。蒯通は弁舌を振るって、自らの身を全うすることができた。そもそも言葉とは、君主を尊び、我が身を重んじ、国家を安んじ、天寿を全うするための手段である。だから言葉は磨かざるを得ず、説得は巧みにせざるを得ないのである。

解説

説苑・善説篇の巻頭を飾るこの章は、弁舌・説得の術を体系的に説く総論である。荀子・鬼谷子・子貢・主父偃という異なる立場の論者を並べることで、説得とは単なる話術ではなく、誠実な人格と揺るがぬ意志、そして相手の心情を見極める観察力の総合であることを示している。子産や蘇秦の実例が添えられているのは、言葉の巧拙が身の安危・国家の存亡に直結するという厳しい現実を裏付けるためである。現代の交渉や会議の場でも、論理が正しいだけでは人は動かない。相手が何を善しとするかを見極め、誠実さと熱意をもって語る者だけが、真に人を動かせるという教訓は色褪せない。

この章句が説くこと

弁舌誠実説得

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