説苑 / 建本
趙簡子以襄子為後,董安於曰:「無恤不才,今以為後,何也?」簡子曰:「是其人能為社稷忍辱。」異日,智伯與襄子飲,而灌襄子之首,大夫請殺之,襄子曰:「先君之立我也,曰能為社稷忍辱,豈曰能刺人哉!」處十月,智伯圍襄子於晉陽,襄子疏隊而擊之,大敗智伯,漆其首以為酒器。
新字:趙簡子以襄子為後,董安於曰:「無恤不才,今以為後,何也?」簡子曰:「是其人能為社稷忍辱。」異日,智伯与襄子飲,而灌襄子之首,大夫請殺之,襄子曰:「先君之立我也,曰能為社稷忍辱,豈曰能刺人哉!」処十月,智伯囲襄子於晋陽,襄子疏隊而撃之,大敗智伯,漆其首以為酒器。
書き下し
趙簡子、襄子を以て後と為す。董安于曰わく、「無恤才あらず、今以て後と為すは、何ぞや」と。簡子曰わく、「是れ其の人社稷の為に辱を忍ぶ能う」と。異日、智伯襄子と飲み、襄子の首に灌ぐ。大夫之を殺さんことを請う。襄子曰わく、「先君の我を立つるや、曰わく能く社稷の為に辱を忍ぶと。豈に曰わく能く人を刺すと言わんや」と。処ること十月、智伯襄子を晋陽に囲む。襄子隊を疏らにして之を撃ち、大いに智伯を敗る。其の首を漆りて以て酒器と為す。
現代語訳
趙簡子が襄子を後継者とした。董安于が「無恤(襄子)にはさほどの才がないのに、今これを後継者とするのはなぜですか」と尋ねた。簡子は「この者は国家のために屈辱を忍ぶことができる人物だからだ」と答えた。後日、智伯が襄子と酒を飲む席で、襄子の頭に酒を浴びせかけた。大夫たちが智伯を殺すよう願い出た。襄子は「先君が私を後継者に立てられたのは、国家のために屈辱を忍べるからだと言われた。人を刺し殺せるからだと言われたわけではない」と言った。その十か月後、智伯は襄子を晋陽の地で包囲した。襄子は軍を分けて奇襲をかけ、智伯を大いに打ち破った。そして智伯の頭蓋骨に漆を塗り、酒器として用いた。
解説

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『淮南子』道應訓趙簡子 襄子を以て後と爲す。董閼於曰く、「無恤は賤し。今 以て後と爲すは、何ぞや」と。簡子曰く、「是れ人と爲りや、能く社稷の爲に羞を忍ぶ」と。異日、知伯 襄子と飲み、而して襄子の首を批つ。大夫 之を殺さんことを請う。襄子曰く、「先君の我を立つるや、曰く『能く社稷の爲に羞を忍ぶ』と。豈に能く人を刺すと曰わんや」と。十月を處て、知伯 襄子を晉陽に圍む。襄子 隊を疎きて之を撃ち、大いに知伯を敗り、其の首を破りて以て飲器と爲す。故に老子曰く、「其の雄を知りて、其の雌を守れば、天下の谿と爲る」と。
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説苑・復恩智伯趙襄子と晋陽の下に戦ひて死す、智伯の臣豫譲怒り、其の精気を以て襄主の心を動かす能ふを以て、乃ち身に漆して形を変じ、炭を吞みて声を更ふ、襄主将に出でんとするに、豫譲偽りて死人と為り、梁の下に処る、駟馬驚きて進まず、襄主心を動かし、使者をして梁下を視しめ豫譲を得たり、襄主其の義を重んじて殺さざるなり。又盗み、罪に抵る為り、刑を被るの人赭衣を為し、繕宮に入る、襄主心を動かし、則ち曰く必ず豫譲ならん、と。襄主執へて之に問ひて曰く、「子始め中行君に事へ、智伯中行君を殺すも、子死する能はず、還りて反りて之に事ふ、今吾智伯を殺すや、乃ち身を漆して癘を為し、炭を吞みて啞を為し、寡人を殺さんと欲するは、何ぞ先行と異なるか」と。豫譲曰く、「中行君は衆人もて臣を畜ふ、臣も亦た衆人もて之に事ふ、智伯は朝士もて臣を待す、臣も亦た朝士として之が用を為す」と。襄子曰く、「義に非ずや、子は壮士なり」と。乃ち自ら車庫の中に置き、水漿口に入る者三たびするも日ならず以て豫譲を礼す、譲自ら知り、遂に自殺するなり。
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説苑・貴德智伯衛より還り、三卿藍臺に燕す、智襄子韓康子に戯れて段規を侮る、智果之を聞きて諫めて曰く、「主難に備へずんば、難必ず至らん」と。曰く、「難将に我に由らんとす、我難を為さざれば、誰か敢へて之を興さん」と。対へて曰く、「是に異なり、夫れ郤氏には車轅の難有り、趙には孟姫の讒有り、欒には叔祁の訴有り、范中行には函冶の難有り、皆主の知る所なり。夏書に之有りて曰く、『一人三たび失す、怨み豈に明に在らんや、見えざるに是れ図れ』と。周書に之有りて曰く、『怨みは大に在らず、亦た小に在らず』と。夫れ君子は能く小物を勤む、故に大患無し。今主一謀にして人君・相を媿しめ、又備へずんば、敢へて難を興さずと曰ふも、乃ち不可ならざらんや。嘻、懼れざるべからず、蚋蟻蜂蠆すら皆能く人を害す、況んや君相をや」と。聴かず、是より五年にして晋陽の難有り、段規反りて智伯を師に殺す、遂に智氏を滅ぼす。
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『春秋左氏伝』哀公二十七年 能く恥を忍ぶ悼の四年、晉の荀瑤、師を帥ゐて鄭を圍む。未だ至らざるに、鄭の駟弘曰く、「知伯は愎にして勝つことを好む。早く之に下らば、則ち行らしむ可きなり」と。乃ち先づ南里を保ちて以て之を待つ。知伯、南里に入り、桔柣の門に門す。鄭人、酅魁壘を俘にし、之に賂するに知政を以てす。其の口を閉ぢて死す。將に門せんとす。知伯、趙孟に謂ふ、「之に入れ」と。對へて曰く、「主、此に在り」と。知伯曰く、「惡にして勇無し。何を以て子と為れる」と。對へて曰く、「能く恥を忍ぶを以て、庶はくは趙宗を害すること無からんか」と。知伯悛めず。趙襄子、是に由りて知伯を惎み、遂に之を喪ぼす。知伯は貪にして愎なり。故に韓・魏、反して之を喪ぼす。
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呂氏春秋・長攻④趙簡子病み、太子を召して、之に告げて曰く、「我死して已に葬むらば、衰を服して夏屋の山に上り、以て望め。」太子敬みて諾す。簡子死し、已に葬る。衰を服し、大臣を召して之に告げて曰く、「願わくは夏屋に登りて以て望まん。」大臣皆諫めて曰く、「夏屋に登りて以て望むは、是れ游なり。衰を服して以て游ぶは、不可なり。」襄子曰く、「此れ先君の命なり。寡人敢て廢せず。」群臣敬みて諾す。襄子、夏屋に上りて、以て代の俗を望むに、其の樂しみは甚だ美なり。是に於て襄子曰く、「先君必ず此を以て之を教えしなり。」歸るに及びて、代を取る所以を慮かり、乃ち先づ之に善くす。代君色を好む。其の姉を以て之に妻せんと請う。代君許諾す。姉已に往く。代を善みする所以の者は乃ち萬故なり。馬郡は馬に宜し。代君、善馬を以て襄子に奉ず、馬郡盡く。襄子、代君に謁げて、之を觴せんと請う。先づ舞う者をして兵を其の羽中に置かしむること、數百人。先づ大金斗を具う。代君至り、酒酣なり。斗を反して之を擊ち、一成にして、腦、地に塗る。舞う者兵を操りて以て鬭い、盡く其の從者を殺す。因りて代君の車を以て、其の妻を迎う。其の妻遙かに之の状を聞き、笄を磨して以て自ら刺せり。故に趙氏、今に至るまで、刺笄の證と反斗の號と有り。
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史記 趙世家簡子、陽虎と衛の太子蒯聵を衛に送る。衛内れず、戚に居る。晋の定公二十一年、簡子邯鄲を抜く。中行文子柏人に奔る。簡子又柏人を囲む。中行文子・范昭子遂に斉に奔る。趙竟に邯鄲・柏人を有つ。范・中行の余邑晋に入る。趙は名は晋の卿なるも、実は晋の権を専らにし、奉邑は諸侯に侔し。晋の定公三十年、定公、呉王夫差と長を黄池に争ふ。趙簡子晋の定公に従ひ、卒に呉に長たり。定公三十七年に卒す。而して簡子三年の喪を除き、期のみ。是の歳、越王句践呉を滅ぼす。晋の出公十一年、知伯鄭を伐つ。趙簡子疾む。太子毋卹をして将として鄭を囲ましむ。知伯酔ひ、酒を以て毋卹に灌ぎ撃つ。毋卹の群臣之に死せんことを請ふ。毋卹曰く、「君の毋卹を置く所以は、能く訽を忍ぶが為なり」と。然れども亦知伯を慍む。知伯帰り、因りて簡子に謂ひ、毋卹を廃せしめんとす。簡子聴かず。毋卹此に由りて知伯を怨む。晋の出公十七年、簡子卒し、太子毋卹代はりて立つ、是を襄子と為す。趙襄子の元年、越呉を囲む。襄子喪食を降し、楚隆をして呉王を問はしむ。襄子の姊前に代王の夫人為り。簡子既に葬られ、未だ服を除かず、北のかた夏屋に登り、代王を請ふ。廚人をして銅枓を操りて以て代王及び従者に食はしめ、行斟して、陰かに宰人をして各々枓を以て代王及び従官を撃殺せしめ、遂に兵を興して代の地を平ぐ。其の姊之を聞き、泣きて天を呼び、笄を摩して自殺す。代人之を憐み、死せし所の地を之に名づけて摩笄の山と為す。遂に代を以て伯魯の子周を封じて代の成君と為す。伯魯は襄子の兄、故の太子なり。太子蚤く死す、故に其の子を封ず。襄子立ちて四年、知伯、趙・韓・魏と尽く其の范・中行の故地を分つ。晋の出公怒り、斉・魯に告げ、以て四卿を伐たんと欲す。