戦国策 / 燕太子丹質於秦亡歸
燕太子丹質於秦,亡歸。見秦且滅六國,兵以臨易水,恐其禍至。太子丹患之,謂其太傅鞫武曰:「燕、秦不兩立,願太傅幸而圖之。」武對曰:「秦地遍天下,威脅韓、魏、趙氏,則易水以北,未有所定也。柰何以見陵之怨,欲排其逆鱗哉?」太子曰:「然則何由?」太傅曰:「請入,圖之。」居之有間,樊將軍亡秦之燕,太子容之。太傅鞫武諫曰:「不可。夫秦王之暴,而積怨於燕,足為寒心,又況聞樊將軍之在乎!是以委肉當餓虎之蹊,禍必不振矣!雖有管、晏,不能為謀。願太子急遣樊將軍入匈奴以滅口。請西約三晉,南連齊、楚,北講於單于,然後乃可圖也。」太子丹曰:「太傅之計,曠日彌久,心惛然,恐不能須臾。且非獨於此也。夫樊將軍困窮於天下,歸身於丹,丹終不迫於強秦,而棄所哀憐之交置之匈奴,是丹命固卒之時也。願太傅更慮之。」鞫武曰:「燕有田光先生者,其智深,其勇沉,可與之謀也。」太子曰:「願因太傅交於田先生,可乎?」鞫武曰:「敬諾。」出見田光,道太子曰:「願圖國事於先生。」田光曰:「敬奉教。」乃造焉。太子跪而逢迎,卻行為道,跪而拂席。田先生坐定,左右無人,太子避席而請曰:「燕、秦不兩立,願先生留意也。」田光曰:「臣聞騏驥盛壯之時,一日而馳千里。至其衰也,駑馬先之。今太子聞光壯盛之時,不知吾精已消亡矣。雖然,光不敢以乏國事也。所善荊軻,可使也。」太子曰:「願因先生得願交於荊軻,可乎?」田光曰:「敬諾。」即起,趨出。太子送之至門,曰:「丹所報,先生所言者,國大事也,願先生勿泄也。」田光俛而笑曰:「諾。」僂行見荊軻,曰:「光與子相善,燕國莫不知。今太子聞光壯盛之時,不知吾形已不逮也,幸而教之曰:『燕、秦不兩立,願先生留意也。』光竊不自外,言足下於太子,願足下過太子於宮。」荊軻曰:「謹奉教。」田光曰:「光聞長者之行,不使人疑之,今太子約光曰:『所言者,國之大事也,願先生勿泄也。』是太子疑光也。夫為行使人疑之,非節俠士也。」欲自殺以激荊軻,曰:「願足下急過太子,言光已死,明不言也。」遂自剄而死。軻見太子,言田光已死,明不言也。太子再拜而跪,膝下行流涕,有頃而後言曰:「丹所請田先生無言者,欲以成大事之謀,今田先生以死明不泄言,豈丹之心哉?」荊軻坐定,太子避席頓首曰:「田先生不知丹不肖,使得至前,願有所道,此天所以哀燕不棄其孤也。今秦有貪饕之心,而欲不可足也。非盡天下之地,臣海內之王者,其意不饜。今秦已虜韓王,盡納其地,又舉兵南伐楚,北臨趙。王翦將數十萬之眾臨漳、鄴,而李信出太原、雲中。趙不能支秦,必入臣。入臣,則禍至燕。燕小弱,數困於兵,今計舉國不足以當秦。諸侯服秦,莫敢合從。丹之私計,愚以為誠得天下之勇士,使於秦,窺以重利,秦王貪其贄,必得所願矣。誠得劫秦王,使悉反諸侯之侵地,若曹沫之與齊桓公,則大善矣;則不可,因而刺殺之。彼大將擅兵於外,而內有大亂,則君臣相疑。以其間諸侯,諸侯得合從,其償破秦必矣。此丹之上願,而不知所以委命,唯荊卿留意焉。」久之,荊軻曰:「此國之大事,臣駑下,恐不足任使。」太子前頓首,固請無讓。然後許諾。於是尊荊軻為上卿,舍上舍,太子日日造問,供太牢異物,間進車騎美女,恣荊軻所欲,以順適其意。久之,荊卿未有行意。秦將王翦破趙,虜趙王,盡收其地,進兵北略地,至燕南界。太子丹恐懼,乃請荊卿曰:「秦兵旦暮渡易水,則雖欲長侍足下,豈可得哉?」荊卿曰:「微太子言,臣願得謁之。今行而無信,則秦未可親也。夫今樊將軍,秦王購之金千斤,邑萬家。誠能得樊將軍首,與燕督亢之地圖獻秦王,秦王必說見臣,臣乃得有以報太子。」太子曰:「樊將軍以窮困來歸丹,丹不忍以己之私,而傷長者之意,願足下更慮之。」荊軻知太子不忍,乃遂私見樊於期曰:「秦之遇將軍,可謂深矣。父母宗族,皆為戮沒。今聞購將軍之首,金千斤,邑萬家,將柰何?」樊將軍仰天太息流涕曰:「吾每念,常痛於骨髓,顧計不知所出耳。」軻曰:「今有一言,可以解燕國之患,而報將軍之仇者,何如?」樊於期乃前曰:「為之柰何?」荊軻曰:「願得將軍之首以獻秦,秦王必喜而善見臣,臣左手把其袖,而右手揕抗其胸,然則將軍之仇報,而燕國見陵之恥除矣。將軍豈有意乎?」樊於期偏袒扼腕而進曰:「此臣日夜切齒拊心也,乃今得聞教。」遂自刎。太子聞之,馳往,伏屍而哭,極哀。既已,無可柰何,乃遂收盛樊於期之首,函封之。於是,太子預求天下之利匕首,得趙人徐夫人之匕首,取之百金,使工以藥淬之,以試人,血濡縷,人無不立死者。乃為裝遣荊軻。燕國有勇士秦武陽,年十二,殺人,人不敢與忤視。乃令秦武陽為副。荊軻有所待,欲與俱,其人居遠未來,而為留待。頃之未發。太子遲之,疑其有改悔,乃復請之曰:「日以盡矣,荊卿豈無意哉?丹請先遣秦武陽。」荊軻怒,叱太子曰:「今日往而不反者,豎子也!今提一匕首入不測之強秦,僕所以留者,待吾客與俱。今太子遲之,請辭決矣!」遂發。太子及賓客知其事者,皆白衣冠以送之。至易水上,既祖,取道。高漸離擊筑,荊軻和而歌,為變徵之聲,士皆垂淚涕泣。又前而為歌曰:「風蕭蕭兮易水寒,壯士一去兮不復還!」復為忼慨羽聲,士皆瞋目,髮盡上指冠。於是荊軻遂就車而去,終已不顧。既至秦,持千金之資幣物,厚遺秦王寵臣中庶子蒙嘉。嘉為先言於秦王曰:「燕王誠振畏慕大王之威,不敢興兵以拒大王,願舉國為內臣,比諸侯之列,給貢職如郡縣,而得奉守先王之宗廟。恐懼不敢自陳,謹斬樊於期頭,及獻燕之督亢之地圖,函封,燕王拜送于庭,使使以聞大王。唯大王命之。」秦王聞之,大喜。乃朝服,設九賓,見燕使者咸陽宮。荊軻奉樊於期頭函,而秦武陽奉地圖匣,以次進至陛下。秦武陽色變振恐,群臣怪之,荊軻顧笑武陽,前為謝曰:「北蠻夷之鄙人,未嘗見天子,故振慴,願大王少假借之,使畢使於前。」秦王謂軻曰:「起,取武陽所持圖。」軻既取圖奉之,發圖,圖窮而匕首見。因左手把秦王之袖,而右手持匕首揕抗之。未至身,秦王驚,自引而起,絕袖。拔劍,劍長,摻其室。時怨急,劍堅,故不可立拔。荊軻逐秦王,秦王還柱而走。群臣驚愕,卒起不意,盡失其度。而秦法,群臣侍殿上者,不得持尺兵。諸郎中執兵,皆陳殿下,非有詔不得上。方急時,不及召下兵,以故荊軻逐秦王,而卒惶急無以擊軻,而乃以手共搏之。是時侍醫夏無且,以其所奉藥囊提軻。秦王之方還柱走,卒惶急不知所為,左右乃曰:「王負劍!王負劍!」遂拔以擊荊軻,斷其左股。荊軻廢,乃引其匕首提秦王,不中,中柱。秦王復擊軻,被八創。軻自知事不就,倚柱而笑,箕踞以罵曰:「事所以不成者,乃欲以生劫之,必得約契以報太子也。」左右既前斬荊軻,秦王目眩良久。而論功賞群臣及當坐者,各有差。而賜夏無且黃金二百鎰,曰:「無且愛我,乃以藥囊提軻也。」於是,秦大怒燕,益發兵詣趙,詔王翦軍以伐燕。十月而拔燕薊城。燕王喜、太子丹等,皆率其精兵東保於遼東。秦將李信追擊燕王,王急,用代王嘉計,殺太子丹,欲獻之秦。秦復進兵攻之。五歲而卒滅燕國,而虜燕王喜。秦兼天下。其後荊軻客高漸離以擊筑見秦皇帝,而以筑擊秦皇帝,為燕報仇,不中而死。
新字:燕太子丹質於秦,亡帰。見秦且滅六国,兵以臨易水,恐其禍至。太子丹患之,謂其太傅鞫武曰:「燕、秦不両立,願太傅幸而図之。」武対曰:「秦地遍天下,威脅韓、魏、趙氏,則易水以北,未有所定也。柰何以見陵之怨,欲排其逆鱗哉?」太子曰:「然則何由?」太傅曰:「請入,図之。」居之有間,樊将軍亡秦之燕,太子容之。太傅鞫武諫曰:「不可。夫秦王之暴,而積怨於燕,足為寒心,又況聞樊将軍之在乎!是以委肉当餓虎之蹊,禍必不振矣!雖有管、晏,不能為謀。願太子急遣樊将軍入匈奴以滅口。請西約三晉,南連斉、楚,北講於単于,然後乃可図也。」太子丹曰:「太傅之計,曠日弥久,心惛然,恐不能須臾。且非独於此也。夫樊将軍困窮於天下,帰身於丹,丹終不迫於強秦,而棄所哀憐之交置之匈奴,是丹命固卒之時也。願太傅更慮之。」鞫武曰:「燕有田光先生者,其智深,其勇沈,可与之謀也。」太子曰:「願因太傅交於田先生,可乎?」鞫武曰:「敬諾。」出見田光,道太子曰:「願図国事於先生。」田光曰:「敬奉教。」乃造焉。太子跪而逢迎,却行為道,跪而払席。田先生坐定,左右無人,太子避席而請曰:「燕、秦不両立,願先生留意也。」田光曰:「臣聞騏驥盛壮之時,一日而馳千里。至其衰也,駑馬先之。今太子聞光壮盛之時,不知吾精已消亡矣。雖然,光不敢以乏国事也。所善荊軻,可使也。」太子曰:「願因先生得願交於荊軻,可乎?」田光曰:「敬諾。」即起,趨出。太子送之至門,曰:「丹所報,先生所言者,国大事也,願先生勿泄也。」田光俛而笑曰:「諾。」僂行見荊軻,曰:「光与子相善,燕国莫不知。今太子聞光壮盛之時,不知吾形已不逮也,幸而教之曰:『燕、秦不両立,願先生留意也。』光竊不自外,言足下於太子,願足下過太子於宮。」荊軻曰:「謹奉教。」田光曰:「光聞長者之行,不使人疑之,今太子約光曰:『所言者,国之大事也,願先生勿泄也。』是太子疑光也。夫為行使人疑之,非節俠士也。」欲自殺以激荊軻,曰:「願足下急過太子,言光已死,明不言也。」遂自剄而死。軻見太子,言田光已死,明不言也。太子再拝而跪,膝下行流涕,有頃而後言曰:「丹所請田先生無言者,欲以成大事之謀,今田先生以死明不泄言,豈丹之心哉?」荊軻坐定,太子避席頓首曰:「田先生不知丹不肖,使得至前,願有所道,此天所以哀燕不棄其孤也。今秦有貪饕之心,而欲不可足也。非尽天下之地,臣海内之王者,其意不饜。今秦已虜韓王,尽納其地,又舉兵南伐楚,北臨趙。王翦将数十万之眾臨漳、鄴,而李信出太原、雲中。趙不能支秦,必入臣。入臣,則禍至燕。燕小弱,数困於兵,今計舉国不足以当秦。諸侯服秦,莫敢合従。丹之私計,愚以為誠得天下之勇士,使於秦,窺以重利,秦王貪其贄,必得所願矣。誠得劫秦王,使悉反諸侯之侵地,若曹沫之与斉桓公,則大善矣;則不可,因而刺殺之。彼大将擅兵於外,而内有大乱,則君臣相疑。以其間諸侯,諸侯得合従,其償破秦必矣。此丹之上願,而不知所以委命,唯荊卿留意焉。」久之,荊軻曰:「此国之大事,臣駑下,恐不足任使。」太子前頓首,固請無譲。然後許諾。於是尊荊軻為上卿,舎上舎,太子日日造問,供太牢異物,間進車騎美女,恣荊軻所欲,以順適其意。久之,荊卿未有行意。秦将王翦破趙,虜趙王,尽収其地,進兵北略地,至燕南界。太子丹恐懼,乃請荊卿曰:「秦兵旦暮渡易水,則雖欲長侍足下,豈可得哉?」荊卿曰:「微太子言,臣願得謁之。今行而無信,則秦未可親也。夫今樊将軍,秦王購之金千斤,邑万家。誠能得樊将軍首,与燕督亢之地図献秦王,秦王必説見臣,臣乃得有以報太子。」太子曰:「樊将軍以窮困来帰丹,丹不忍以己之私,而傷長者之意,願足下更慮之。」荊軻知太子不忍,乃遂私見樊於期曰:「秦之遇将軍,可謂深矣。父母宗族,皆為戮没。今聞購将軍之首,金千斤,邑万家,将柰何?」樊将軍仰天太息流涕曰:「吾毎念,常痛於骨髄,顧計不知所出耳。」軻曰:「今有一言,可以解燕国之患,而報将軍之仇者,何如?」樊於期乃前曰:「為之柰何?」荊軻曰:「願得将軍之首以献秦,秦王必喜而善見臣,臣左手把其袖,而右手揕抗其胸,然則将軍之仇報,而燕国見陵之恥除矣。将軍豈有意乎?」樊於期偏袒扼腕而進曰:「此臣日夜切齒拊心也,乃今得聞教。」遂自刎。太子聞之,馳往,伏屍而哭,極哀。既已,無可柰何,乃遂収盛樊於期之首,函封之。於是,太子預求天下之利匕首,得趙人徐夫人之匕首,取之百金,使工以薬淬之,以試人,血濡縷,人無不立死者。乃為装遣荊軻。燕国有勇士秦武陽,年十二,殺人,人不敢与忤視。乃令秦武陽為副。荊軻有所待,欲与倶,其人居遠未来,而為留待。頃之未発。太子遅之,疑其有改悔,乃復請之曰:「日以尽矣,荊卿豈無意哉?丹請先遣秦武陽。」荊軻怒,叱太子曰:「今日往而不反者,豎子也!今提一匕首入不測之強秦,僕所以留者,待吾客与倶。今太子遅之,請辞決矣!」遂発。太子及賓客知其事者,皆白衣冠以送之。至易水上,既祖,取道。高漸離擊筑,荊軻和而歌,為変徴之声,士皆垂涙涕泣。又前而為歌曰:「風蕭蕭兮易水寒,壮士一去兮不復還!」復為忼慨羽声,士皆瞋目,髪尽上指冠。於是荊軻遂就車而去,終已不顧。既至秦,持千金之資幣物,厚遺秦王寵臣中庶子蒙嘉。嘉為先言於秦王曰:「燕王誠振畏慕大王之威,不敢興兵以拒大王,願舉国為内臣,比諸侯之列,給貢職如郡県,而得奉守先王之宗廟。恐懼不敢自陳,謹斬樊於期頭,及献燕之督亢之地図,函封,燕王拝送于庭,使使以聞大王。唯大王命之。」秦王聞之,大喜。乃朝服,設九賓,見燕使者咸陽宮。荊軻奉樊於期頭函,而秦武陽奉地図匣,以次進至陛下。秦武陽色変振恐,群臣怪之,荊軻顧笑武陽,前為謝曰:「北蠻夷之鄙人,未嘗見天子,故振慴,願大王少仮借之,使畢使於前。」秦王謂軻曰:「起,取武陽所持図。」軻既取図奉之,発図,図窮而匕首見。因左手把秦王之袖,而右手持匕首揕抗之。未至身,秦王驚,自引而起,絶袖。抜剣,剣長,摻其室。時怨急,剣堅,故不可立抜。荊軻逐秦王,秦王還柱而走。群臣驚愕,卒起不意,尽失其度。而秦法,群臣侍殿上者,不得持尺兵。諸郎中執兵,皆陳殿下,非有詔不得上。方急時,不及召下兵,以故荊軻逐秦王,而卒惶急無以擊軻,而乃以手共搏之。是時侍医夏無且,以其所奉薬囊提軻。秦王之方還柱走,卒惶急不知所為,左右乃曰:「王負剣!王負剣!」遂抜以擊荊軻,断其左股。荊軻廃,乃引其匕首提秦王,不中,中柱。秦王復擊軻,被八創。軻自知事不就,倚柱而笑,箕踞以罵曰:「事所以不成者,乃欲以生劫之,必得約契以報太子也。」左右既前斬荊軻,秦王目眩良久。而論功賞群臣及当坐者,各有差。而賜夏無且黄金二百鎰,曰:「無且愛我,乃以薬囊提軻也。」於是,秦大怒燕,益発兵詣趙,詔王翦軍以伐燕。十月而抜燕薊城。燕王喜、太子丹等,皆率其精兵東保於遼東。秦将李信追擊燕王,王急,用代王嘉計,殺太子丹,欲献之秦。秦復進兵攻之。五歳而卒滅燕国,而虜燕王喜。秦兼天下。其後荊軻客高漸離以擊筑見秦皇帝,而以筑擊秦皇帝,為燕報仇,不中而死。
書き下し
燕の太子丹、秦に質為り、亡げて帰る。秦の且に六国を滅ぼさんとし、兵易水に臨むを見て、其の禍の至らんことを恐る。太子丹之を患い、其の太傅鞫武に謂いて曰く、「燕・秦両立せず、願わくは太傅幸いに之を図れ」と。武対えて曰く、「秦地天下に遍く、韓・魏・趙氏を威脅す、則ち易水以北、未だ定まる所有らず。柰何ぞ見陵の怨みを以て、其の逆鱗に排れんと欲するや」と。太子曰く、「然らば則ち何に由らん」と。太傅曰く、「請う入りて、之を図らん」と。之に居ること間有り、樊将軍秦を亡げて燕に之く、太子之を容る。太傅鞫武諫めて曰く、「不可なり。夫れ秦王の暴にして、燕に積怨するは、寒心と為すに足る、又況んや樊将軍の在るを聞くをや。是れ肉を委てて餓虎の蹊に当つるを以てす、禍必ず振わじ。管・晏有りと雖も、謀を為す能わず。願わくは太子急ぎ樊将軍を遣りて匈奴に入りて以て口を滅せしめよ。請う西のかた三晋に約し、南のかた斉・楚に連なり、北のかた単于に講じ、然る後乃ち図るべきなり」と。太子丹曰く、「太傅の計、日を曠しくして久しきに彌り、心惛然として、恐らくは須臾も能わず。且つ独り此に非ざるなり。夫れ樊将軍天下に困窮して、身を丹に帰す、丹終に強秦に迫られて、哀憐する所の交わりを棄てて之を匈奴に置かず、是れ丹命固より卒するの時なり。願わくは太傅更めて之を慮らんことを」と。鞫武曰く、「燕に田光先生なる者有り、其の智深く、其の勇沈む、与に謀るべきなり」と。太子曰く、「願わくは太傅に因りて田先生に交わるを得んこと、可ならんか」と。鞫武曰く、「敬んで諾す」と。出でて田光に見え、太子を道いて曰く、「願わくは国事を先生に図らん」と。田光曰く、「敬んで教えを奉ぜん」と。乃ち造く。太子跪きて逢迎し、卻行して道を為し、跪きて席を払う。田先生坐定まり、左右人無く、太子席を避けて請いて曰く、「燕・秦両立せず、願わくは先生留意せよ」と。田光曰く、「臣聞く、騏驥の盛壮の時、一日にして千里を馳すと。其の衰うるに至りては、駑馬も之に先んず。今太子光の壮盛の時を聞き、吾が精已に消亡せしを知らざるなり。然りと雖も、光敢えて以て国事を乏しくせず。善しとする所の荊軻は、使うべきなり」と。太子曰く、「願わくは先生に因りて荊軻に交わるを得んこと、可ならんか」と。田光曰く、「敬んで諾す」と。即ち起ちて、趨り出づ。太子之を送りて門に至り、曰く、「丹の報ずる所、先生の言う所は、国の大事なり、願わくは先生泄らすこと勿かれ」と。田光俛して笑いて曰く、「諾」と。僂行して荊軻に見え、曰く、「光と子と相い善きこと、燕国知らざる莫し。今太子光の壮盛の時を聞き、吾が形已に逮ばざるを知らず、幸いに之に教えて曰く、『燕・秦両立せず、願わくは先生留意せよ』と。光窃かに自ら外ならずとし、足下を太子に言えり、願わくは足下太子を宮に過れ」と。荊軻曰く、「謹んで教えを奉ぜん」と。田光曰く、「光聞く、長者の行いは、人をして之を疑わしめずと。今太子光に約して曰く、『言う所の者は、国の大事なり、願わくは先生泄らすこと勿かれ』と。是れ太子光を疑うなり。夫れ行いを為すに人をして之を疑わしむるは、節俠の士に非ざるなり」と。自殺して以て荊軻を激せんと欲し、曰く、「願わくは足下急ぎ太子に過り、光已に死し、言わざるを明らかにせりと言え」と。遂に自剄して死す。軻太子に見え、田光已に死し、言わざるを明らかにせりと言う。太子再拝して跪き、膝下涕を流し、頃有りて後言いて曰く、「丹田先生に言う無きを請いし所以は、以て大事の謀を成さんと欲すればなり、今田先生死を以て言を泄らさざるを明らかにす、豈丹の心ならんや」と。荊軻坐定まり、太子席を避けて頓首して曰く、「田先生丹の不肖なるを知らず、得て前に至らしむ、願わくは道う所有らん、此れ天の燕を哀れみて其の孤を棄てざる所以なり。今秦貪饕の心有り、而して欲足るべからず。天下の地を尽くし、海内の王を臣とするに非ざれば、其の意饜かず。今秦已に韓王を虜にし、尽く其の地を納れ、又兵を挙げて南のかた楚を伐ち、北のかた趙に臨む。王翦数十万の衆を将いて漳・鄴に臨み、而して李信太原・雲中に出づ。趙秦に支うる能わず、必ず入りて臣とならん。入りて臣とならば、則ち禍燕に至らん。燕小弱にして、数々兵に困しめられ、今計るに国を挙ぐるも以て秦に当たるに足らず。諸侯秦に服し、敢えて合従する莫し。丹の私計、愚以為えらく誠に天下の勇士を得て、秦に使いせしめ、窺うに重利を以てせば、秦王其の贄を貪り、必ず願う所を得ん。誠に秦王を劫かすを得て、諸侯の侵す所の地を悉く反さしめば、曹沫の斉桓公に与するが若きは、則ち大いに善からん。則ち不可ならば、因りて之を刺殺せん。彼の大将兵を外に擅にして、内に大乱有らば、則ち君臣相い疑わん。其の間を以て諸侯すれば、諸侯合従するを得ん、其れ秦を破るに償うこと必せり。此れ丹の上願にして、命を委ぬる所以を知らず、唯だ荊卿留意せよ」と。之を久しくして、荊軻曰く、「此れ国の大事なり、臣駑下にして、恐らくは使いに任ずるに足らず」と。太子前みて頓首し、固く請いて譲る無し。然る後許諾す。是に於いて荊軻を尊びて上卿と為し、上舎に舎らしめ、太子日々造問し、太牢異物を供し、間々車騎美女を進め、荊軻の欲する所を恣にし、以て其の意に順適す。之を久しくして、荊卿未だ行くの意有らず。秦の将王翦趙を破り、趙王を虜にし、尽く其の地を収め、兵を進めて北のかた地を略し、燕の南界に至る。太子丹恐懼し、乃ち荊卿に請いて曰く、「秦兵旦暮に易水を渡らば、則ち長く足下に侍せんと欲すと雖も、豈得べけんや」と。荊卿曰く、「太子の言微くとも、臣謁するを得んと願う。今行きて信無くんば、則ち秦未だ親しむべからず。夫れ今樊将軍は、秦王之を購うに金千斤、邑万家なり。誠に樊将軍の首を得て、燕の督亢の地図と与に秦王に献ぜば、秦王必ず説びて臣に見えん、臣乃ち以て太子に報ゆる有るを得ん」と。太子曰く、「樊将軍窮困を以て丹に来帰す、丹己の私を以て、長者の意を傷つくるに忍びず、願わくは足下更めて之を慮らんことを」と。荊軻太子の忍びざるを知り、乃ち遂に私かに樊於期に見えて曰く、「秦の将軍を遇するは、深しと謂うべし。父母宗族、皆戮没せらる。今将軍の首を購うに、金千斤、邑万家なるを聞く、将に柰何せんとする」と。樊将軍天を仰ぎて太息し涕を流して曰く、「吾常に念う毎に、常に骨髄に痛む、顧うに計出だす所を知らざるのみ」と。軻曰く、「今一言有り、以て燕国の患いを解き、而して将軍の仇に報ゆべきは、何如」と。樊於期乃ち前みて曰く、「之を為すこと柰何せん」と。荊軻曰く、「願わくは将軍の首を得て以て秦に献ぜば、秦王必ず喜びて善く臣に見えん、臣左手にて其の袖を把り、而して右手にて其の胸を揕抗せば、然らば則ち将軍の仇報いられ、燕国見陵の恥除かれん。将軍豈に意有りや」と。樊於期偏袒し腕を扼して進みて曰く、「此れ臣が日夜切歯拊心する所なり、乃ち今教えを聞くを得たり」と。遂に自刎す。太子之を聞き、馳せ往きて、屍に伏して哭し、極めて哀しむ。既已にして、柰何ともすべき無く、乃ち遂に樊於期の首を収め盛り、函にして之を封ず。是に於いて、太子預め天下の利匕首を求め、趙人徐夫人の匕首を得て、之を取ること百金、工をして薬を以て之に淬がしめ、以て人に試むるに、血縷を濡らし、人立ちどころに死せざる者無し。乃ち装を為して荊軻を遣る。燕国に勇士秦武陽有り、年十二にして、人を殺し、人敢えて与に忤視せず。乃ち秦武陽をして副たらしむ。荊軻待つ所有り、与に俱にせんと欲するも、其の人遠きに居りて未だ来たらず、而して留めて待つを為す。之を頃くして未だ発せず。太子之を遅しとし、其の改悔有るを疑い、乃ち復た之に請いて曰く、「日以て尽きんとす、荊卿豈に意無からんや、丹請う先に秦武陽を遣らん」と。荊軻怒り、太子を叱して曰く、「今日往きて反らざる者は、豎子なり。今一匕首を提げて不測の強秦に入る、僕の留まる所以の者は、吾が客の与に俱にするを待てばなり。今太子之を遅しとす、請う辞決せん」と。遂に発す。太子及び賓客の其の事を知る者、皆白衣冠して以て之を送る。易水の上に至り、既に祖し、道を取る。高漸離筑を撃ち、荊軻和して歌い、変徴の声を為し、士皆涙を垂れ涕泣す。又前みて歌いて曰く、「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去りて復た還らず」と。復た忼慨たる羽声を為し、士皆目を瞋らし、髪尽く上りて冠を指す。是に於いて荊軻遂に車に就きて去り、終に已に顧みず。既に秦に至り、千金の資幣物を持ち、厚く秦王の寵臣中庶子蒙嘉に遺る。嘉為に先に秦王に言いて曰く、「燕王誠に大王の威を振畏慕い、敢えて兵を興して大王に拒まず、願わくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県の如くにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。恐懼して敢えて自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封し、燕王庭に拝送し、使いをして以て大王に聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ」と。秦王之を聞き、大いに喜ぶ。乃ち朝服し、九賓を設け、燕の使者を咸陽宮に見る。荊軻樊於期の頭函を奉じ、而して秦武陽地図の匣を奉じ、次を以て進みて陛下に至る。秦武陽色変じて振恐し、群臣之を怪しみ、荊軻武陽を顧みて笑い、前みて謝して曰く、「北蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず、故に振慴す、願わくは大王少しく之を仮借し、使いをして前に畢えしめよ」と。秦王軻に謂いて曰く、「起ちて、武陽の持つ所の図を取れ」と。軻既に図を取りて之を奉じ、図を発けば、図窮まりて匕首見わる。因りて左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕抗す。未だ身に至らざるに、秦王驚き、自ら引きて起ち、袖絶つ。剣を抜くに、剣長く、其の室に摻る。時怨急にして、剣堅く、故に立ちどころに抜くべからず。荊軻秦王を逐い、秦王柱を還りて走る。群臣驚愕し、卒かに起こりて意わず、尽く其の度を失う。而して秦の法、群臣の殿上に侍する者は、尺兵を持つを得ず。諸郎中兵を執る者、皆殿下に陳なり、詔有るに非ざれば上るを得ず。方に急なる時、下兵を召すに及ばず、故を以て荊軻秦王を逐うも、卒かに惶急して軻を撃つに以る無く、而して乃ち手を以て共に之を搏つ。是の時侍医夏無且、其の奉ずる所の薬囊を以て軻に提つ。秦王の方に柱を還りて走るや、卒かに惶急して為す所を知らず、左右乃ち曰く、「王剣を負え、王剣を負え」と。遂に抜きて以て荊軻を撃ち、其の左股を断つ。荊軻廃し、乃ち其の匕首を引きて秦王に提つも、中たらず、柱に中たる。秦王復た軻を撃ち、八創を被る。軻自ら事の就らざるを知り、柱に倚りて笑い、箕踞して罵りて曰く、「事の成らざる所以の者は、乃ち生きながら之を劫かし、必ず約契を得て以て太子に報いんと欲すればなり」と。左右既に前みて荊軻を斬り、秦王目眩すること良久し。而して功を論じ群臣及び当に坐すべき者を賞し、各々差有り。而して夏無且に黄金二百鎰を賜いて曰く、「無且我を愛し、乃ち薬囊を以て軻に提てり」と。是に於いて、秦大いに燕を怒り、益々兵を発して趙に詣らしめ、王翦に詔して軍して以て燕を伐たしむ。十月にして燕の薊城を抜く。燕王喜・太子丹等、皆其の精兵を率いて東のかた遼東に保つ。秦の将李信燕王を追撃す、王急にして、代王嘉の計を用い、太子丹を殺し、之を秦に献ぜんと欲す。秦復た兵を進めて之を攻む。五歳にして卒に燕国を滅ぼし、燕王喜を虜にす。秦天下を兼ぬ。其の後荊軻の客高漸離筑を撃つを以て秦皇帝に見え、而して筑を以て秦皇帝を撃ち、燕の為に仇に報いんとするも、中たらずして死す。
現代語訳
燕の太子丹は秦に人質として送られていたが、逃げ帰った。秦がまさに六国を滅ぼそうとし、その軍が易水にまで迫っているのを見て、太子丹は災いが自国に及ぶことを恐れた。太子丹はこれを憂え、太傅(教育係)の鞫武にこう言った。「燕と秦は両立できません。どうか太傅、幸いにもこの事態を図ってください。」鞫武は答えた。「秦の領土は天下に広がり、韓・魏・趙を威圧しています。易水以北の燕の地とて、いつまで安泰か分かりません。どうして侵略された怨みのために、秦という虎の逆鱗に触れようとなさるのですか。」太子は「それでは、どうすればよいのか」と尋ねた。太傅は「どうか屋敷にお戻りください、じっくり策を考えましょう」と言った。 しばらくして、樊将軍(樊於期)が秦から逃れて燕にやって来た。太子丹は彼を受け入れた。太傅の鞫武は諫めて言った。「なりません。そもそも秦王の暴虐さは、燕にすでに深い怨みを積んでおり、それだけでも恐ろしいことなのに、まして樊将軍がここにいると知れば、なおさらです。これは肉を投げ捨てて飢えた虎の通り道に置くようなもので、災いは必ず収まらないでしょう。たとえ管仲や晏嬰のような賢臣がいても、もはや策の施しようがありません。どうか太子には、急いで樊将軍を匈奴へ送り出し、秦にその居場所を知られる口実をなくしていただきたい。そのうえで西は三晋(韓・魏・趙)と同盟を結び、南は斉・楚と連携し、北は匈奴の単于と講和を結び、それから初めて対策を図るべきです。」太子丹は言った。「太傅の策は、日数がかかりすぎ、私の心は千々に乱れて、とても悠長に待っていられません。それに、これだけの理由ではないのです。樊将軍は天下に困窮し、この身を私に委ねてくださったのです。私はいくら強大な秦に迫られようとも、この気の毒な友を見捨てて匈奴へ追いやるようなことはできません。それをすれば、私の命運もまさに尽きるときでしょう。どうか太傅には、改めてお考え直しいただきたい。」鞫武は言った。「燕には田光先生という人物がいます。その知恵は深く、その勇気は沈着です。彼となら共に謀ることができるでしょう。」太子は「太傅を通じて田先生と縁を結びたいのですが、よろしいでしょうか」と尋ねた。鞫武は「謹んで承知いたしました」と言った。 鞫武は退出して田光に会い、太子の意向を伝えて「国家の大事について先生にお図りいただきたいのです」と言った。田光は「謹んでお教えを承りましょう」と言い、そこで太子のもとを訪れた。太子は跪いて出迎え、後ずさりしながら先導し、跪いて座席の塵を払った。田先生が座に着き、左右に人がいなくなると、太子は席を立って身を低くし、こう請うた。「燕と秦は両立できません。どうか先生、お心にお留めください。」田光は言った。「私が聞くところでは、駿馬も盛んな壮年の時には一日に千里を駆けるが、老いて衰える頃には駑馬にすら先を越されるといいます。いま太子は私の壮健であった昔の評判をお聞きになったのでしょうが、私の気力はすでに衰え尽きていることをご存じない。とはいえ、私は国家の大事をおろそかにするようなことはいたしません。私と親しい荊軻という者ならば、お役に立てるでしょう。」太子は「先生を通じて荊軻殿と縁を結びたいのですが、よろしいでしょうか」と尋ねた。田光は「謹んで承知いたしました」と言い、すぐに立ち上がり、足早に退出した。 太子は門まで見送りに出てこう言った。「私がお伝えしたこと、そして先生がおっしゃったことは、国家の大事です。どうか先生、決して漏らされませんように。」田光はうつむいて笑い、「承知した」と言った。田光は腰を曲げて歩み、荊軻に会いに行き、こう言った。「私とあなたが親しいことは、燕国で知らぬ者はない。いま太子は、私が壮健であった昔の評判をお聞きになり、私の体力がもはや及ばないことをご存じないまま、幸いにも私にこう教えを授けられた。『燕と秦は両立できない、どうか先生、お心にお留めください』と。私はひそかに、自分をよそ者とは思わず、あなたのことを太子に申し上げた。どうかあなたには、太子のもとへ、宮中にお訪ねいただきたい。」荊軻は「謹んでお教えに従いましょう」と言った。田光は言った。「私が聞くところでは、徳のある人物の行いは、人に疑いを抱かせないものだといいます。ところがいま太子は私にこう釘を刺しました。『申し上げたことは国家の大事です、どうか先生、漏らされませんように』と。これは太子が私を疑っているということです。行いによって人に疑いを抱かせるようでは、節義ある俠士とは言えません。」田光は自らの死をもって荊軻を奮い立たせようと思い、こう言った。「どうかあなたには、急ぎ太子のもとへ行き、田光はすでに死んで、決して漏らさないことを明らかにした、とお伝えください。」そうして自らの首を刎ねて死んだ。 荊軻は太子に会い、田光がすでに死んで、決して漏らさないことを明らかにしたと伝えた。太子は再拝して跪き、膝をついたまま涙を流し、しばらくしてからこう言った。「私が田先生にこのことを漏らさないよう願ったのは、大事の謀をなんとしても成し遂げたかったからです。いま田先生が死をもって漏らさないことを明らかにされたとは、決して私の本意ではありません。」荊軻が座に着くと、太子は席を立って頭を地につけ、こう言った。「田先生は私が不肖の身であることをご存じなかったので、あなたを私の前に至らせてくださいました。どうか申し上げたいことがございます。これは天が燕を憐れんで、その孤立無援を見捨てないでいてくれる証しなのでしょう。いま秦には貪欲飽くなき野心があり、その欲望には限りがありません。天下の土地を尽くし、四海の内の王たちをすべて臣下にしなければ、その意志は満たされないのです。いま秦はすでに韓王を虜にし、その領土をすべて併呑し、さらに兵を挙げて南は楚を討ち、北は趙に迫っています。王翦は数十万の大軍を率いて漳水・鄴のあたりに迫り、李信は太原・雲中方面に出兵しています。趙は秦に抗しきれず、必ず秦に服属して臣下となるでしょう。趙が服属すれば、その禍は燕に及びます。燕は小さく弱く、たびたび戦乱に苦しめられてきました。いま計算してみても、国を挙げて総力を尽くしても秦に対抗するには足りません。諸侯はすでに秦に服従し、誰も敢えて合従(連合)しようとはしません。私の個人的な考えでは、愚案ながら、まことに天下第一の勇士を得て秦に使いさせ、重い利益をちらつかせて誘い、秦王がその贈り物に貪欲な心を起こせば、必ず望みを果たせるだろうと思うのです。もし秦王を脅して、諸侯から奪った領土をすべて返させることができれば、かつて曹沫が斉の桓公に対して行ったのと同じように、これに越したことはありません。もしそれが不可能であれば、その場で刺し殺すのです。あの大将軍(王翦ら)たちが外地で軍を掌握している最中に、内部で大混乱が起これば、秦の君臣は互いに疑心暗鬼になるでしょう。その隙に乗じて諸侯に働きかければ、諸侯は合従を成し遂げることができ、必ず秦を打ち破ることができるでしょう。これこそ私の最上の願いですが、この命をどなたに託せばよいか分かりません。どうか荊卿、お心に留めていただきたいのです。」しばらくして、荊軻は言った。「これは国家の大事です。私は駑馬のごとき凡才ゆえ、その大任には堪えられないのではないかと恐れます。」太子は進み出て頭を地につけ、固く辞退させまいと請うた。そうしてついに荊軻は承諾した。 こうして太子は荊軻を上卿として尊び、最上の館に住まわせ、太子は毎日自ら訪ねて機嫌をうかがい、最高級の食事や珍しい品々を供し、時には車馬や美女までも差し出し、荊軻の望むままを叶えて、その心を満足させた。しかし長い月日が経っても、荊卿には出発する意志が見えなかった。秦の将軍・王翦は趙を打ち破り、趙王を虜にし、その領土をことごとく接収し、さらに兵を進めて北へ領地を切り取りながら、燕の南の国境にまで至った。太子丹は恐れおののき、荊卿にこう請うた。「秦の兵は間もなく易水を渡るでしょう。長くあなたにお仕えいただきたいと願っても、もはやそれも叶わないのではないでしょうか。」荊卿は言った。「太子のお言葉がなくとも、私はもとより秦王に謁見したいと願っておりました。しかし、いま何の信物も持たずに行けば、秦には近づくことすらできません。そもそも、いまの樊将軍は、秦王が黄金千斤・一万戸の領地を懸けて首を求めているほどの人物です。もし本当に樊将軍の首と、燕の督亢の地図とを手に入れて秦王に献上できれば、秦王は必ず喜んで私に謁見を許すでしょう。そうして初めて、私は太子にご恩返しをすることができるのです。」太子は言った。「樊将軍は困窮の末にこの私を頼って来てくださったのです。私は自分の都合のために、この徳のある方の心を傷つけるようなことは忍びません。どうかあなたには、改めてお考え直しいただきたい。」 荊軻は太子が忍びないと思っていることを知り、そこでひそかに樊於期に会ってこう言った。「秦があなたを遇したそのやり方は、まことに酷いと言うほかありません。ご両親も一族もことごとく処刑され、根絶やしにされました。いま私が聞くところでは、秦はあなたの首に黄金千斤、一万戸の領地を懸けて求めているそうです。あなたはどうなさるおつもりですか。」樊将軍は天を仰いで嘆息し、涙を流してこう言った。「私はこのことを思うたびに、いつも骨の髄まで痛みを覚えます。しかし、どうすればよいのか、その方策が分からないのです。」荊軻は言った。「いま一言申し上げれば、燕国の憂いを解消し、なおかつあなたの仇を討つことができる方法があります。いかがでしょうか。」樊於期は進み出て「それはどのようにするのですか」と尋ねた。荊軻は言った。「あなたの首を頂戴して秦に献上できれば、秦王は必ず喜んで、快く私に謁見を許すでしょう。そのとき私は左手で秦王の袖をつかみ、右手で剣を突きつけて胸を刺します。そうすればあなたの仇は報われ、燕国が受けてきた屈辱もすすがれるでしょう。あなたにはそのお気持ちがおありでしょうか。」樊於期は片肌を脱ぎ、自らの腕を握りしめて進み出て言った。「これこそ私が日夜歯ぎしりし、胸を叩いて悔しがっていたことです。いまようやくその教えを聞くことができました。」そうして自らの首を刎ねて死んだ。太子はこれを聞くと、馬を走らせて駆けつけ、遺骸に伏して哭し、この上ない哀しみに沈んだ。しかし、もはやどうすることもできず、ついに樊於期の首を納め、箱に収めて封をした。 そこで太子は、あらかじめ天下随一の鋭い匕首を求め、趙の人・徐夫人の作った匕首を手に入れた。これを百金で買い取り、職人に命じて毒薬をその刃に染み込ませ、人体で試したところ、血が一筋垂れるだけで、その場で死なない者はいなかった。そうして荊軻のために旅支度を整えた。燕国には秦武陽という勇士がいた。わずか十二歳で人を殺し、誰も彼と正面から目を合わせようとしなかった。そこで秦武陽を荊軻の副使とした。荊軻には出発を待つ理由があった。ある人物と共に行きたいと思っていたのだが、その人は遠方に住んでいてまだ到着していなかった。そのため出発を留保して待ち続けていた。しばらく経っても出発しようとしないので、太子はこれを遅いと思い、荊軻の決意が鈍ったのではないかと疑い、再びこう促した。「日はすでに暮れようとしています。荊卿には出発するお気持ちがないのでしょうか。まず秦武陽だけでも先に遣わせてはいかがでしょう。」荊軻は怒り、太子を叱ってこう言った。「今日出発して二度と戻らない、そのような覚悟のない者こそ小僧というのです。いま匕首一本を懐に、予測もつかない強大な秦に乗り込もうとしているのです。私が出発を留めていたのは、私の客人と共に行くのを待つためでした。いま太子がこれを遅いとおっしゃるなら、お別れいたしましょう。」そうしてついに出発した。 太子と、事情を知る賓客たちは、皆白い衣冠を身にまとって彼を見送った。易水のほとりに至り、道祖神への祭りを終えると、いよいよ旅立ちの道についた。高漸離が筑(琴に似た楽器)を打ち鳴らし、荊軻はこれに合わせて歌い、変徴の調べを奏でると、士たちは皆涙を流してすすり泣いた。荊軻はさらに進み出てこう歌った。「風は蕭々と吹き、易水は冷たい。壮士はひとたび去れば、二度と帰ることはない。」続けて、慷慨たる羽の調べを奏でると、士たちは皆目を怒らせ、髪はことごとく逆立って冠を突き上げた。こうして荊軻はついに車に乗って出発し、最後まで一度も振り返らなかった。 秦に到着すると、荊軻は千金に相当する贈り物を携え、秦王の寵臣である中庶子・蒙嘉に厚く贈った。蒙嘉は荊軻のために先んじて秦王にこう言上した。「燕王はまことに大王の御威光を畏れ慕い、あえて兵を挙げて大王に抗おうとはせず、国を挙げて内臣となることを願い、諸侯の列に連なり、郡県と同じように貢ぎ物を献上して、先王の宗廟をお守りすることをお許しいただきたいと申しております。恐れ多くて自ら申し上げることもできず、謹んで樊於期の首を斬り、あわせて燕の督亢の地図を献上いたします。箱に納めて封をし、燕王は宮廷でこれを拝礼して見送り、使者に大王への言上を託しました。どうか大王には、思し召しのままにお命じください。」秦王はこれを聞いて大いに喜んだ。そこで正装の朝服を身にまとい、最高の礼式である九賓の礼を設けて、咸陽宮で燕の使者を引見した。 荊軻は樊於期の首の入った箱を捧げ持ち、秦武陽は地図の入った箱を捧げ持ち、順に進んで御殿の階段の下まで至った。秦武陽は顔色を変えて震え恐れ、群臣はこれを不審に思ったが、荊軻は武陽を振り返って笑い、進み出てこう詫びた。「北方の蛮夷の田舎者ゆえ、いまだかつて天子にお目にかかったことがなく、それで恐れおののいているのです。どうか大王には、少しばかりお見逃しくださり、この者に使いを果たさせていただきたい。」秦王は荊軻にこう言った。「立って、武陽の持っている地図をこちらへ持ってまいれ。」荊軻は地図を受け取ってこれを捧げ、広げていくと、地図が広げ尽くされたところに、匕首が現れた。荊軻はすかさず左手で秦王の袖をつかみ、右手に匕首を持ってこれを突きつけた。刃が身体に届く前に、秦王は驚いて自ら身を引いて立ち上がり、その拍子に袖が引きちぎれた。秦王は剣を抜こうとしたが、剣が長すぎて鞘に引っかかった。折しも動転していたうえ、剣がきつく鞘に収まっていたため、すぐには抜くことができなかった。荊軻は秦王を追い、秦王は宮殿の柱を回りながら逃げ惑った。群臣たちは驚愕し、突然のことで思いも寄らず、皆すっかり平静さを失った。しかも秦の法律では、御殿の上に控える群臣は、たとえわずかな武器であっても身につけることを許されておらず、武器を持つ護衛の郎中たちは皆御殿の下に整列していて、詔がなければ上に上がることを許されなかった。まさに緊急のこの時、下の護衛兵を呼ぶ間もなく、そのため荊軻は秦王を追いかけたが、群臣たちはあまりの慌てぶりに荊軻を撃つ武器もなく、ただ素手で共に荊軻に掴みかかるばかりであった。このとき、侍医の夏無且は、自分が捧げ持っていた薬袋を荊軻に投げつけた。秦王がまさに柱を回って逃げているさなか、あまりの動転に何をすべきか分からずにいると、左右の者がこう叫んだ。「王よ、剣を背に負ってお抜きください、王よ、剣を背に負ってお抜きください。」そこで秦王は剣を背負うようにして抜き、これで荊軻を斬りつけ、その左足を切断した。荊軻は動けなくなり、それでも手にした匕首を投げつけて秦王に迫ったが、命中せず、柱に突き刺さった。秦王はさらに荊軻を斬りつけ、荊軻は八箇所の傷を負った。荊軻は自ら事の成らぬことを悟ると、柱に寄りかかって笑い、両足を投げ出して座り込みながら、こう罵った。「事が成らなかったのは、生きたまま秦王を脅し、必ず領土返還の約定を取り付けて太子に報いようとしたからだ。」左右の者たちが進み出て荊軻を斬り殺すと、秦王はしばらくの間、目まいがおさまらなかった。 その後、秦王は功績を論じて群臣、および罪に問われるべき者たちにそれぞれ差をつけて賞罰を与えた。侍医の夏無且には黄金二百鎰を賜り、こう言った。「無且は私を愛するがゆえに、薬袋を荊軻に投げつけてくれたのだ。」こうして、秦は燕に対して激怒し、さらに兵を発して趙に集結させ、王翦に詔を下して軍を率いて燕を討伐させた。十か月後、燕の都・薊城は陥落した。燕王喜と太子丹らは、皆その精鋭部隊を率いて東方の遼東へ逃れ、そこに立てこもった。秦の将軍・李信は燕王を追撃した。王は追い詰められ、代王・嘉の献策を用いて太子丹を殺し、その首を秦に献上しようとした。しかし秦はさらに兵を進めて攻撃を続けた。それから五年後、秦はついに燕国を滅ぼし、燕王喜を虜にした。こうして秦は天下を統一した。その後、荊軻の食客であった高漸離は、筑の名手として秦の始皇帝に召し出され、その筑で始皇帝を打ち据えようとし、燕のために仇を討とうとしたが、命中せず討ち取られて死んだ。
解説
この章句が説くこと
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史記 刺客列伝荊軻は、衛人なり。書を読み剣を撃つを好む。既に燕に至り、燕の狗屠及び善く筑を撃つ高漸離を愛す。燕の太子丹秦に質たり亡げ帰り、秦を怨みて之に報いんと欲す。秦の将樊於期秦王に罪を得て燕に亡ぐ、太子受けて之を舍らしむ。荊軻遂に太子に見え、秦王を刺さんことを謀る。太子豫め天下の利匕首を求め、薬を以て之を焠(にらぐ)ぐ。太子及び賓客の其の事を知る者、皆白衣冠して以て之を送る。易水の上に至り、既に祖して道を取るや、高漸離筑を撃ち、荊軻和して歌ひ、変徵の声を為し、士皆涙を垂れて涕泣す。又前みて歌を為して曰く、「風蕭蕭として易水寒し、壮士一たび去りて復た還らず」と。復た羽声の慨たるを為し、士皆目を瞋らせ、髪尽く上りて冠を指す。是に於いて荊軻車に就きて去り、終に已に顧みず。遂に秦に至り、樊於期の首及び督亢の地図を献ず。図窮まりて匕首見はれ、荊軻秦王を刺すも中らず、秦王剣を抜きて荊軻を撃つ。荊軻遂に八創を被り、事成らずして死す。
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戦国策・范睢至秦范睢秦に至る、王庭に迎へ、范睢に謂ひて曰く、「寡人宜しく身を以て令を受くること久しかるべし。今義渠の事急なれば、寡人日々自ら太后に請ふ。今義渠の事已(や)みぬれば、寡人乃ち身を以て命を受くるを得たり。躬(み)づから竊かに閔然として不敏なるも、敬んで賓主の禮を執らん。」范睢辭讓す。是の日范睢を見るに、見る者變色易容せざる無し。秦王左右を屏(しりぞ)け、宮中虛しくして人無く、秦王跪きて請ひて曰く、「先生何を以てか寡人に教ふるを幸ひせん。」范睢曰く、「唯唯。」間有りて、秦王復た請ふ、范睢曰く、「唯唯。」是くの若き者三たびす。秦王跽(ひざまづ)きて曰く、「先生幸ひに寡人に教へざるか。」范睢謝して曰く、「敢へて然るに非ざるなり。臣聞く、始め呂尚の文王に遇へるや、身漁父と為りて渭陽の濱に釣りせしのみ。是くの若きは交疏なり。已に一說して立ちて太師と為り、載せて俱に歸る者は、其の言深ければなり。故に文王果して功を呂尚に收め、卒に天下を擅にして身帝王と立てり。即し文王呂望を疏んじて與に深く言はざらしめば、是れ周に天子の德無く、文・武與に其の王を成す無からん。今臣は羇旅の臣にして、王に交疏し、而して願はくは陳ぜんとする所は、皆君を匡すの事にして、人の骨肉の間に處る。願はくは臣の陋忠を陳べんとするも、未だ王の心を知らざるなり。王三たび問ひて對へざる所以は是れなり。臣畏るる所有りて敢へて言はざるに非ざるなり。今日之を前に言ひて、明日之に伏誅せらるるを知るも、然れども臣敢へて畏れざるなり。大王信じて臣の言を行はば、死すとも以て臣の患ひと爲すに足らず、亡ぶとも以て臣の憂ひと爲すに足らず、身に漆して厲(らい)と爲り、髮を被りて狂と爲るも、以て臣の恥と爲すに足らず。五帝の聖にして死し、三王の仁にして死し、五伯の賢にして死し、烏獲の力にして死し、奔・育の勇にして死せり。死は人の必ず免れざる所なり。必然の勢に處りて、以て少しく秦に補ふ有る可くんば、此れ臣の大いに願ふ所なり、臣何をか患へん。伍子胥は橐に載せられて昭關を出で、夜行きて晝伏し、蔆水に至りて以て其の口を餌ふ無く、坐行蒲服して、食を呉市に乞ひ、卒に呉國を興し、闔廬を覇たらしめたり。臣をして謀を進むること伍子胥の如きを得しめ、之に幽囚を加へて、終身復た見えざるとも、是れ臣の說の行はるるなり、臣何をか憂へん。箕子・接輿は、身に漆して厲と爲り、髮を被りて狂と爲るも、殷・楚に益無かりき。臣をして箕子・接輿と行を同じくするを得しめ、身に漆すること以て賢とする所の主に補ふ可くんば、是れ臣の大榮なり、臣又何をか恥ぢん。臣の恐るる所は、獨り臣死するの後、天下臣の忠を盡くして身蹶(たふ)るるを見んことを恐るるなり。是を以て口を杜(と)ぢ足を裹みて、肯へて秦に即く莫きのみ。足下上は太后の嚴を畏れ、下は姦臣の態に惑ひ、深宮の中に居りて保傅の手を離れず、終身闇惑して與に姦を照らす無く、大なる者は宗廟滅覆し、小なる者は身以て孤危なり。此れ臣の恐るる所のみ。若し夫れ窮辱の事、死亡の患ひの若きは、臣敢へて畏れざるなり。臣死して秦治まらば、生けるより賢れり。」秦王跽きて曰く、「先生是れ何の言ぞや。夫れ秦國は僻遠にして、寡人は愚にして不肖なり。先生乃ち幸ひに此に至る、此れ天寡人を以て先生を慁(わづら)はし、先王の廟を存せしむるなり。寡人先生に命を受くるを得るは、此れ天の先王を幸ひして其の孤を棄てざる所以なり。先生奈何ぞ言ふこと此くの若くなる。事の大小と無く、上は太后に及び、下は大臣に至るまで、願はくは先生悉く以て寡人に教へ、寡人を疑ふ無かれ。」范睢再拜す、秦王も亦た再拜す。范睢曰く、「大王の國は、北に甘泉・谷口有り、南に涇・渭を帶び、右に隴・蜀、左に關・阪あり。戰車千乘、奮擊百萬。秦卒の勇、車騎の多きを以て、以て諸侯に當らば、譬へば韓盧を馳せて蹇兔を逐ふが若し。霸王の業致す可し。今反りて閉ぢて敢へて兵を山東に窺はざる者は、是れ穰侯國の爲に謀りて忠ならず、大王の計に失ふ所有ればなり。」王曰く、「願はくは失ふ所の計を聞かん。」睢曰く、「大王韓・魏を越えて強齊を攻むるは、計に非ざるなり。師を出だすこと少なければ、則ち以て齊を傷つくるに足らず。之を多くすれば則ち秦を害す。臣意ふに王の計、師を出だすこと少なくして、韓・魏の兵を悉くせんと欲するは則ち不義なり。今與國の親しむ可からざるを見て、人の國を越えて攻む、可ならんや。計に疏きなり。昔者、齊人楚を伐ちて、戰ひて勝ち、軍を破り將を殺し、地を再辟すること千里なるも、膚寸の地も得る者無かりき。豈に齊地を欲せざらんや、形有つ能はざればなり。諸侯齊の罷露するを見て、君臣の親しまざるを見て、兵を舉げて之を伐ち、主辱められ軍破れ、天下の笑ひと爲れり。然る所以の者は、其の楚を伐ちて韓・魏を肥やせばなり。此れ所謂『賊に兵を藉し盜に食を齎す』者なり。王は遠く交はりて近く攻むるに如かず、寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば則ち王の尺なり。今此を舍てて遠く攻む、亦た繆(あやま)らざらんや。且つ昔者、中山の地、方五百里、趙獨り之を擅にす。功成り名立ち利附けば、則ち天下能く害する莫し。今韓・魏は、中國の處にして天下の樞なり。王若し霸たらんと欲せば、必ず中國に親しみて以て天下の樞と爲し、以て楚・趙を威(おど)すべし。趙彊ければ則ち楚附き、楚彊ければ則ち趙附く。楚・趙附けば則ち齊必ず懼れ、懼るれば必ず辭を卑くし幣を重くして以て秦に事へん。齊附きて韓・魏虛にす可きなり。」王曰く、「寡人魏に親しまんと欲するも、魏は變多きの國なり、寡人親しむ能はず。請ふ魏に親しむこと奈何と問はん。」范睢曰く、「辭を卑くし幣を重くして以て之に事へよ。不可ならば地を削りて之に賂せよ。不可ならば兵を舉げて之を伐て。」是に於て兵を舉げて邢丘を攻め、邢丘拔けて魏附くを請ふ。曰く、「秦・韓の地形は、相錯はること繡の如し。秦の韓有るは、木の蠹有るが若く、人の心腹を病むがごとし。天下變有らば、秦の爲に害を爲す者は韓より大なるは莫し。王は韓を收むるに如かず。」王曰く、「寡人韓を收めんと欲するも聽かず、之を爲すこと奈何せん。」范睢曰く、「兵を舉げて滎陽を攻むれば、則ち成睪の路通ぜず。北に太行の道を斬らば則ち上黨の兵下らず。一たび舉げて榮陽を攻むれば、則ち其の國斷ちて三と爲らん。魏・韓必ず亡ぶるを見ば、焉んぞ聽かざるを得んや。韓聽けば霸の事成る可し。」王曰く、「善し。」范睢曰く、「臣山東に居りしとき、齊の內に田單有るを聞くも、其の王有るを聞かず。秦に太后・穰侯・涇陽・華陽有るを聞くも、其の王有るを聞かず。夫れ國を擅にする之を王と謂ひ、能く利害を專らにする之を王と謂ひ、殺生の威を制する之を王と謂ふ。今太后行を擅にして顧みず、穰侯使を出だして報ぜず、涇陽・華陽擊斷して諱む無し。四貴備はりて國危からざる者、未だ之有らざるなり。此の四者の爲にすれば、下乃ち所謂王無きのみ。然らば則ち權焉んぞ傾かざるを得んや、令焉んぞ王より出づるを得んや。臣聞く、『善く國を爲むる者は、內に其の威を固くし、外に其の權を重くす』と。穰侯の使者は王の重きを操り、諸侯を決裂し、天下に符を剖ち、敵を征し國を伐ち、敢へて聽かざる莫し。戰ひて勝ち攻めて取れば、則ち利陶に歸す。國弊るれば、諸侯に御せられ、戰ひて敗るれば、則ち怨み百姓に結び、禍ひ社稷に歸す。詩に曰く、『木の實繁き者は其の枝を披き、其の枝を披く者は其の心を傷つく。其の都を大にする者は其の國を危くし、其の臣を尊くする者は其の主を卑くす。』と。淖齒齊の權を管し、閔王の筯を縮め、之を廟梁に縣け、宿昔にして死せり。李兌趙を用ゐ、主父の食を減じ、百日にして餓死せり。今秦、太后・穰侯事を用ゐ、高陵・涇陽之を佐け、卒に秦王無し。此れ亦た淖齒・李兌の類のみ。臣今王の廟朝に獨立するを見る。且つ臣將に後世秦國を有つ者、王の子孫に非ざるを恐れんとす。」秦王懼れ、是に於て乃ち太后を廢し、穰侯を逐ひ、高陵を出だし、涇陽を關外に走らしむ。昭王范睢に謂ひて曰く、「昔者、齊公管仲を得て、時に以て仲父と爲す。今吾子を得て、亦た以て父と爲さん。」
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戦国策・蘇秦死其弟蘇代欲繼之蘇秦死し、其の弟蘇代之に繼がんと欲し、乃ち北のかた燕王噲を見て曰く、「臣は東周の鄙人なり、竊かに王の義甚だ高く甚だ順なるを聞き、鄙人不敏なれども、竊かに鉏耨を釋てて大王に干む。邯鄲に至るに及び、邯鄲に聞く所の者、又東周に聞く所より高し。臣竊かに其の志を負い、乃ち燕廷に至り、王の群臣下吏を觀るに、大王は天下の明主なり」と。王曰く、「子の所謂天下の明主なる者は、何如なる者ぞや」と。對えて曰く、「臣之を聞く、明主は其の過ちを聞くに務め、其の善を聞かんと欲せずと。臣請う王の過ちを謁せん。夫れ齊・趙は、王の仇讎なり。楚・魏は、王の援國なり。今王仇讎を奉じて以て援國を伐つは、燕を利する所以に非ざるなり。王自ら此を慮らば則ち計過つ。以て諫むる無き者は、忠臣に非ざるなり」と。王曰く、「寡人の齊・趙に於けるや、敢えて伐たんと欲する所に非ざるなり」と。曰く、「夫れ人を謀るの心無くして、人をして之を疑わしむるは殆うし、人を謀るの心有りて、人をして之を知らしむるは拙なり、謀未だ發せずして外に聞こゆれば、則ち危うし。今臣聞く、王居處安からず、食飲甘からず、齊に報いんことを思念し、身自ら甲扎を削り、大數有りと曰い、妻自ら甲絣を組み、大數有りと曰うと。之れ有りや」と。王曰く、「子之を聞く、寡人敢えて隱さず。我齊に深怨積怒有りて、之に報いんと欲すること二年なり。齊は我が讎國なり、故に寡人の伐たんと欲する所なり。直だ國弊れ、力足らざるを患うるのみ。子能く燕を以て齊に敵せしめば、則ち寡人國を奉じて之を子に委ねん」と。對えて曰く、「凡そ天下の戰國七にして、燕弱に處る。獨り戰えば則ち能わず、附く所有れば則ち重んぜられざる無し。南のかた楚に附けば則ち楚重く、西のかた秦に附けば則ち秦重く、中ごろ韓・魏に附けば則ち韓・魏重し。且つ苟くも附く所の國重ければ、此れ必ず王をして重んぜられしめん。今夫れ齊王は、長主にして、自ら用うるなり。南のかた楚を攻むること五年、稸積散ず。西のかた秦を困しむこと三年、民憔瘁し、士罷弊す。北のかた燕と戰い、三軍を覆し、二將を獲たり。而して又其の餘兵を以て南面して五千乘の勁宋を舉げ、十二諸侯を包ぬ。此れ其の君の得んと欲する所なるも、其の民力竭くるなり、安くんぞ猶取らんや。且つ臣之を聞く、數戰えば則ち民勞し、久しく師すれば則ち兵弊ると」と。王曰く、「吾聞く齊に清濟・濁河有り、以て固しと為すべし、長城・鉅防有り、以て塞と為すに足ると。誠に之有りや」と。對えて曰く、「天時與せずんば、清濟・濁河有りと雖も、何ぞ以て固しと為すに足らんや。民力窮弊すれば、長城・鉅防有りと雖も、何ぞ以て塞と為すに足らんや。且つ異日は、濟西役せざるは、趙に備うる所以なり。河北師せざるは、燕に備うる所以なり。今濟西・河北、盡く以て役す、封內弊れり。夫れ驕主は必ず計を好まず、亡國の臣は財を貪る。王誠に能く寵子・母弟を愛しむこと毋くして以て質と為し、寶珠玉帛もて其の左右に事えしめば、彼且に燕を德とし宋を亡うを輕んぜんとし、則ち齊亡ぶべきのみ」と。王曰く、「吾終に子を以て天に命を受くとせん」と。曰く、「內寇與せずんば、外敵距ぐべからず。王自ら其の外を治め、臣自ら其の內に報いん、此れ乃ち之を亡ぼすの勢いなり」と。
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戦国策・蘇秦為奉陽君說燕於趙以伐齊蘇秦、奉陽君の為に燕を趙に説きて以て斉を伐たしめんとするも、奉陽君聴かず。乃ち斉に入りて趙を悪しざまに言い、斉をして趙に絶たしむ。斉已に趙に絶つや、之に因りて燕に之き、昭王に謂いて曰く、「韓珉臣に謂いて曰く、『人奉陽君に告げて曰く、「斉をして趙を信ぜざらしむる者は蘇子なり。今斉王蜀子をして宋を伐たしめざらしむるは蘇子なり。斉王と道を謀りて秦を取り以て趙を謀る者は蘇子なり。斉をして趙の質子を守らしむるに甲を以てするは、又蘇子なり」と。請う子に告げて以て斉に請わしめん。果して趙の質子を守るに甲を以てせば、吾必ず子を守るに甲を以てせん』と。其の言悪しきなり。然りと雖も、王患うる勿かれ。臣故より斉に入るに趙の累有るを知れり。出でて之を為すは以て欲する所を成さんとすればなり。臣死して斉大いに趙を悪まば、臣猶お生けるがごとし。斉・趙をして絶たしめば大いに紛らすべきのみ。臣を持するは張孟談に非ざるも、臣をして張孟談の如くならしめば、斉・趙必ず智伯たる者有らん。 「奉陽君朱讙と趙足とに告げて曰く、『斉王公王曰をして説を命ぜしめて曰く、必ず韓珉を反さず、今之を召せり。必ず蘇子に事を任ぜず、今封じて之を相とせり。燕に合せしめず、今燕を以て上交と為す。吾が恃む所の者は順なり、今其の言変ずること其の父より甚だし。順始め蘇子と讎を為せしに、之を見て厲無きを知れり。今之を賢として両にせり。已んぬるかな、吾に斉無し』と。 「奉陽君の怒り甚だし。斉王の趙を信ぜざるが如く、而して奉陽君を小人とするは、是に因りて之に倍く。今の時を以て大いに之を紛らさずんば、解けて復た合すれば、則ち後如何ともすべからざるなり。故に斉・趙の合、苟くも循るべくんば、死すとも以て臣の患と為すに足らず。逃ぐとも以て臣の恥と為すに足らず。諸侯と為るも、以て臣の栄と為すに足らず。髪を被り自ら漆して厲と為すも、以て臣の辱と為すに足らず。然れども臣に患有り。臣死して斉・趙循らずんば、交の臣に分かるるを悪みて、而して後相い効わん、是れ臣の患なり。若し臣死して必ず相攻めば、臣必ず之を勉めて死を求めん。堯・舜の賢も死し、禹・湯の知も死し、孟賁の勇も死し、烏獲の力も死す、生の物固より死せざる者有らんや。必然の物に在りて以て欲する所を成さば、王何ぞ疑わんや。 「臣以為えらく逃れて之を去るに如かず、と。臣韓・魏を以て斉に循い、之が為に秦を取り、深く趙に結びて以て之を勁くせん。是の如くんば則ち相攻むるに近し。臣之が為に燕を累わすと雖も、奉陽君朱讙に告げて曰く、『蘇子燕王の吾が故を以てせずして、予うるに相を以てせず、又予うるに卿を以てせざるを怒り、殆ど燕無からん』と。其の疑此に至る、故に臣之が為に燕を累わさずと雖も、又王を欲せず。伊尹再び湯を逃れて桀に之き、再び桀を逃れて湯に之き、果して鳴条の戦いに与りて、湯を以て天子と為せり。伍子胥楚を逃れて呉に之き、果して伯挙の戦いに与りて、其の父の讎に報いたり。今臣逃れて斉・趙を紛らさば、始めて春秋に著すべし。且つ大事を挙ぐる者、孰か逃れざらんや。桓公の難、管仲魯に逃れ、陽虎の難、孔子衛に逃れ、張儀楚に逃れ、白珪秦に逃れ、望諸中山の相たるや趙をして使いせしめしに、趙之を劫かして地を求め、望諸関を攻めて逃れ出で、外孫の難、薛公戴を釈きて関より逃れ出で、三晋称して以て士と為せり。故に大事を挙ぐるに、逃るるも以て辱と為すに足らざるなり」と。 卒に斉を趙に絶たしめ、趙燕に合して以て斉を攻め、之を敗る。
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戦国策・秦召燕王秦、燕王を召す。燕王往かんと欲す。蘇代、燕王に約して曰く、「楚、枳を得て国亡び、斉、宋を得て国亡ぶ。斉・楚、枳・宋を有つを以て秦に事えざる者は、何ぞや。是れ則ち功有る者は、秦の深讎なり。秦の天下を取るは、義を行うに非ざるなり、暴なり。 秦の暴を天下に行うや、正しく楚に告げて曰く、『蜀地の甲、軽舟にて汶に浮かび、夏水に乗じて江を下れば、五日にして郢に至らん。漢中の甲、舟に乗じて巴より出で、夏水に乗じて漢を下れば、四日にして五渚に至らん。寡人甲を宛に積み、東のかた隨に下れば、知者も謀るに及ばず、勇者も怒るに及ばず、寡人の隼を射るが如し。王乃ち天下の函谷を攻むるを待たば、亦た遠からずや』と。楚王是が為の故に、十七年秦に事う。 秦正しく韓に告げて曰く、『我少曲より起ちて、一日にして太行を断つ。我宜陽より起ちて平陽に触るれば、二日にして繇わざる莫し。我両周を離れて鄭に触るれば、五日にして国挙がらん』と。韓氏以て然りと為し、故に秦に事う。 秦正しく魏に告げて曰く、『我安邑を挙げ、女戟を塞げば、韓氏・太原巻かる。我枳を下し、南陽・封・冀に道すれば、両周を包み、夏水に乗じ、軽舟に浮かべ、強弩前に在り、銛戈後に在り、榮口を決すれば、魏に大梁無く、白馬の口を決すれば、魏に済陽無く、宿胥の口を決すれば、魏に虚・頓丘無し。陸攻すれば則ち河内を撃ち、水攻すれば則ち大梁を滅ぼさん』と。魏氏以て然りと為し、故に秦に事う。 秦安邑を攻めんと欲し、斉の之を救わんことを恐れ、則ち宋を以て斉に委ねて曰く、『宋王無道にして、木人を為りて以て寡人に写し、其の面を射しむ。寡人地絶ち兵遠くして、攻むる能わざるなり。王苟くも能く宋を破りて之を有たば、寡人自ら之を得たるが如し』と。已に安邑を得て女戟を塞ぐや、因りて宋を破るを以て斉の罪と為す。 秦斉を攻めんと欲し、天下の之を救わんことを恐れ、則ち斉を以て天下に委ねて曰く、『斉王四たび寡人と約して、四たび寡人を欺けり。必ず天下を率いて寡人を攻むる者三たびなり。斉有りて秦無く、斉無くして秦有らば、必ず之を伐ち、必ず之を亡ぼさん』と。已に宜陽・少曲を得て、藺・石を致すや、因りて斉を破るを以て天下の罪と為す。 秦魏を攻めんと欲し、楚を重んずれば、則ち南陽を以て楚に委ねて曰く、『寡人固より韓と且に絶えんとす。均陵を残ない、鄳隘を塞げば、苟くも楚に利あらば、寡人自ら之を有つが如し』と。魏与国を棄てて秦に合すれば、因りて鄳隘を塞ぐを以て楚の罪と為す。 兵林中に困しみ、燕・趙を重んずれば、膠東を以て燕に委ね、済西を以て趙に委ぬ。趙魏に講を得て、公子延に至り、因りて犀首行を属して趙を攻む。兵離石に傷つき、馬陵に敗を遇い、而して魏を重んずれば、則ち葉・蔡を以て魏に委ぬ。已に趙に講を得れば、則ち魏を劫かし、魏割かず。困しめば則ち太后・穰侯をして和せしめ、羸うれば則ち舅と母とを兼ねて欺く。燕に適く者は曰く、『膠東を以てす』と。趙に適く者は曰く、『済西を以てす』と。魏に適く者は曰く、『葉・蔡を以てす』と。楚に適く者は曰く、『鄳隘を塞ぐを以てす』と。斉に適く者は曰く、『宋を以てす』と。此れ必ず其の言をして循環の如くならしめ、兵を用うること蜚繡を刺すが如く、母も制する能わず、舅も約する能わず。龍賈の戦、岸門の戦、封陸の戦、高商の戦、趙荘の戦、秦の殺す所の三晋の民数百万。今其の生くる者、皆秦の孤に死せし者なり。西河の外、上雒の地、三川は、晋国の禍にして、三晋の半ばなり。秦の禍此くの如く其れ大なるに、燕・趙の秦する者、皆秦に事うるを争うを以て其の主に説く、此れ臣の大いに患うる所なり」と。 燕昭王行かず、蘇代復た燕に重んぜらる。燕反りて諸侯に約して従親せしむること、蘇秦の時の如く、或いは従い或いは従わざれども、天下是に由りて蘇氏の従約を宗とす。代・厲皆寿を以て死し、名諸侯に顕る。
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戦国策・燕王喜使栗腹以百金為趙孝成王壽燕王喜、栗腹をして百金を以て趙の孝成王の寿を為さしめ、酒すること三日、反りて報じて曰く、「趙民其の壮者は皆長平に死し、其の孤未だ壮ならず、伐つべきなり」と。王乃ち昌国君楽間を召して問いて曰く、「何如」と。対えて曰く、「趙は四達の国なり、其の民皆兵に習う、与に戦うべからず」と。王曰く、「吾倍を以て之を攻めば、可ならんか」と。曰く、「不可なり」と。曰く、「三を以てせば、可ならんか」と。曰く、「不可なり」と。王大いに怒る。左右皆趙伐つべしと以為い、遽かに六十万を起こして以て趙を攻む。栗腹をして四十万を以て鄗を攻めしめ、慶秦をして二十万を以て代を攻めしむ。趙廉頗をして八万を以て栗腹に鄗に遇わしめ、楽乗をして五万を以て慶秦に代に遇わしむ。燕人大いに敗る。楽間趙に入る。燕王書を以て且つ之に謝して曰く、「寡人不佞にして、君の意に奉順する能わず、故に君国を捐てて去る、則ち寡人の不肖明らかなり。敢えて其の願いを端さんとするも、君肯えて聴かず、故に使者をして愚意を陳べしめん、君試みに之を論ぜよ。語に曰く、『仁は軽々しく絶たず、智は軽々しく怨みず』と。君の先王に於けるや、世の明らかに知る所なり。寡人望むらくは非有れば則ち君之を掩蓋せんことを、君の明らかに之を罪するを虞らざるなり。望むらくは過ち有れば則ち君之を教誨せんことを、君の明らかに之を罪するを虞らざるなり。且つ寡人の罪、国人知らざる莫く、天下聞かざる莫し。君微かに明らかなる怨みを出だして以て寡人を棄つれば、寡人必ず罪有らん。然りと雖も、恐らくは君の未だ厚きを尽くさざるなり。諺に曰く、『厚き者は人を毀りて以て自ら益さず、仁者は人を危うくして以て名を要めず』と。故を以て人の邪を掩う者は、厚き人の行いなり。人の過ちを救う者は、仁者の道なり。世に寡人の邪を掩い、寡人の過ちを救う有るは、君の心の望む所に非ずや。今君厚く位を先王に受けて以て尊を成すに、軽々しく寡人を棄てて以て心を快くせば、則ち邪を掩い過ちを救うこと、君に得難し。且つ世に故に厚く施すに薄き有り、行い失有るに故に恵用いらる。今寡人をして不肖の罪に任ぜしめ、君に厚きを失うの累有らしむるは、君の為に之を択ぶに於いて、取る所無し。国に封疆有るは、猶お家に垣牆有るがごとし、好を合わせ悪を掩う所以なり。室相い和する能わずして、出でて鄰家に語るは、未だ通計と為さざるなり。怨悪未だ見れずして明らかに之を棄つるは、未だ厚きを尽くさざるなり。寡人不肖なりと雖も、未だ殷紂の乱の如くならず。君意を得ずと雖も、未だ商容・箕子の累の如くならず。然らば則ち内に寡人を蓋わずして、明らかに外に怨むは、恐らくは其れ適々高きを傷い行いに薄きに足るのみにして、然るに非ざるなり。苟くも君の義を明らかにし、君の高きを成すべくんば、悪名を任うと雖も、受くるに難からず。本悪の意は以て寡人の薄きを明らかにせんとするも、君厚きを得ず。寡人の辱を揚げんとするも、君栄を得ず、此れ一挙にして両つながら失うなり。義者は人を虧きて以て自ら益さず、況んや人を傷つけて以て自ら損なうをや。願わくは君寡人の不肖を以て、往事の美を累わすこと無からんことを。昔者、柳下惠魯に吏たり、三たび黜けられて去らず。或るひと之に謂いて曰く、『以て去るべし』と。柳下惠曰く、『苟くも人と異ならば、悪くにか往きて黜けられざらんや。猶お且つ黜けられんには、故国に寧んずるのみ』と。柳下惠三黜を以て自ら累わさず、故に前業忘れられず。去るを以て心と為さず、故に遠近議する無し。今寡人の罪、国人未だ知らざるに、寡人を議する者天下に遍し。語に曰く、『論は心を脩めず、議は物を累わさず、仁は軽々しく絶たず、智は功を簡てず』と。大功を棄つる者は、輟むるなり。厚利を軽々しく絶つ者は、怨むなり。輟めて之を棄て、怨みて之を累わすは、宜しく遠き者に在るべく、之を君に望まざるなり。今寡人罪無きを以て、君豈に之を怨まんや。願わくは君怨みを捐て、先王を追惟し、復た以て寡人に教えよ。意うに君曰わん、余且に心を慝して而の過ちを成し、先王を顧みずして而の悪を明らかにし、寡人をして進みては功を脩むるを得ず、退きては過ちを改むるを得ざらしめん、と。君の揣る所なり、唯だ君之を図れ。此れ寡人の愚意なり。敬んで書を以て之を謁す」と。楽間・楽乗其の計を用いざるを怨み、二人卒に趙に留まり、報ぜず。