戦国策 / 觀鞅謂春申
觀鞅謂春申曰:「人皆以楚為強,而君用之弱,其於鞅也不然。先君者,二十餘年未嘗見攻。今秦欲踰兵於澠隘之塞,不使;假道兩周倍韓以攻楚,不可。今則不然,魏且旦暮亡矣,不能愛其許、鄢陵與梧,割以予秦,去百六十里。臣之所見者,秦、楚鬬之日也已。」
新字:観鞅謂春申曰:「人皆以楚為強,而君用之弱,其於鞅也不然。先君者,二十余年未嘗見攻。今秦欲踰兵於澠隘之塞,不使;仮道両周倍韓以攻楚,不可。今則不然,魏且旦暮亡矣,不能愛其許、鄢陵与梧,割以予秦,去百六十里。臣之所見者,秦、楚鬬之日也已。」
書き下し
観鞅、春申に謂いて曰く、「人皆楚を以て強しと為すも、君之を用いて弱し、其の鞅に於けるや然らず。先君の時、二十余年未だ嘗て攻めらるるを見ず。今、秦兵を澠隘の塞に踰えんと欲するも、使わせず。両周に道を仮りて韓に倍きて以て楚を攻めんとするも、不可なり。今は則ち然らず、魏且に旦暮に亡びんとす、其の許・鄢陵と梧とを愛しむこと能わず、割きて以て秦に予う、去ること百六十里なり。臣の見る所の者は、秦・楚闘うの日なるのみ。」
現代語訳
観鞅が春申君に言った。「世の人はみな楚を強国だと思っておりますが、あなたがそれを用いてもなお弱いままなのは、この鞅の目から見ると、そうであるべき理由がありません。先代の君主の時代、二十年あまりの間、楚は一度も攻められたことがありませんでした。いま秦が澠隘の要塞を越えて兵を進めようとしても、そう簡単には実行できませんし、両周に道を借りて韓に背いて楚を攻めようとしても、それも容易ではありません。ところがいまはそうではなくなっています。魏はまさに朝夕にも滅びようとしており、許・鄢陵と梧の地を惜しむこともできず、割いて秦に与えてしまいました。その地は楚の都からわずか百六十里の距離にすぎません。わたくしの見るところ、秦と楚が直接ぶつかり合う日は、もう目前に迫っているのです。」
解説
観鞅が春申君に対し、楚がその実力に見合わないほど弱腰になっている現状を鋭く批判した話です。かつて楚は地理的な障壁(澠隘の要塞や両周の存在)に守られ、二十年あまり一度も他国から攻められることがありませんでした。しかしいまや魏が滅亡寸前となり、楚に隣接する許・鄢陵・梧といった要地を惜しげもなく秦に割譲してしまったことで、秦の勢力は楚の都からわずか百六十里という至近距離にまで迫っています。観鞅は、これまで楚を守ってきた地理的な緩衝地帯が失われつつある現実を突きつけ、秦と楚の直接対決がもはや避けられない段階に来ていると警告しました。周囲の状況が変化しているにもかかわらず、過去の安全であった時期の感覚のままでいることの危うさを説くこの逸話は、環境の変化を敏感に察知し、既存の前提が崩れつつあることに早く気づくことの重要性を教えています。
この章句が説くこと
観鞅春申君楚秦緩衝地帯の喪失
関連する章句
-
戦国策・或謂魏王王儆彊之內或るひと魏王に謂う、「王四彊の内を儆め、其の王に従う者、十日の内に、備え具わらざる者は死せしめよ。王因りて其の游の舟を取りて上に之を撃たしめよ。臣王の為に楚に之かん、王臣の反るを胥たば、乃ち行え。」春申君之を聞き、使者に謂いて曰く、「子我が為に反れ、王に見ゆる無かれ。十日の内に、数万の衆、今魏の境を渉る。」秦の使い之を聞き、以て秦王に告ぐ。秦王魏王に謂いて曰く、「大国意有り、必ず来たること是を以て足れり。」
-
戦国策・虞卿謂春申君虞卿、春申君に謂いて曰く、「臣之を春秋に聞く、安に於て危を思い、危なれば則ち安を慮る、と。今、楚王の春秋高し、而して君の封地、早く定めざるべからざるなり。主君の為に封を慮る者は、楚を遠ざくるに若くは莫し。秦の孝公、商君を封じ、孝公死して、後之を殺すを免れず。秦の恵王、冉子を封じ、恵王死して、後王之を奪う。公孫鞅は功臣なり、冉子は親姻なり。然れども奪死を免れざる者は、封の近きが故なり。太公望は斉に封ぜられ、邵公奭は燕に封ぜらる、其の王室を遠ざけたるが為なり。今、燕の罪大にして趙の怒り深し、故に君は北のかた兵して以て趙に徳し、乱燕を践むに如かず、以て身の封を定めん、此れ百代の一時なり。」君曰く、「攻燕に道る所は、斉に非ざれば則ち魏なり。魏・斉新たに楚を怨む、楚君燕を攻めんと欲すと雖も、将に何を道らんとするか。」対えて曰く、「請う魏王をして可ならしめん。」君曰く、「何如。」対えて曰く、「臣請う魏に到り、而して信ずる所以を使わしめん。」迺ち魏王に謂いて曰く、「夫れ楚も亦強大なり、天下敵無し、乃ち且に燕を攻めんとす。」魏王曰く、「郷には、子天下敵無しと云う。今は、子乃ち且に燕を攻めんとすと云う者は、何ぞや。」対えて曰く、「今馬の力多しと為さば則ち有らん、若し千鈞に勝つと曰わば則ち然らざる者は、何ぞや。夫れ千鈞は馬の任に非ざればなり。今楚強大なりと謂わば則ち有らん、若し趙・魏を越えて兵を燕に闘わさば、則ち豈に楚の任ならんや。楚の任に非ずして楚之を為さば、是れ楚を敝るなり。楚を敝りて強魏を見(あら)わさば、其の王に於て孰れか便ならんや。」
-
戦国策・謂魏冉曰楚破秦魏冉に謂ひて曰く、「楚秦を破らば、齊と衡を縣(か)くる能はず。秦三世節を韓・魏に積み、而して齊の德新たに加はる。齊・秦交(こもごも)爭ひ、韓・魏東聽せば、則ち秦伐たれん。齊東國の地有り、方千里。楚九夷を苞(か)ね、又方千里、南に符離の塞有り、北に甘魚の口有り。宋・衞を權縣すれば、宋・衞乃ち阿・甄に當るのみ。利千里なる者二つ有り、富越隸を擅(ほしいまま)にすれば、秦烏(いづ)くんぞ能く齊と韓・魏に縣衡し、方城膏腴の地を支分して以て鄭に薄(せま)らんや。兵休みて復た起こらば、秦を傷つくるに足り、必ずしも齊を待たず。」
-
戦国策・頃襄王二十年頃襄王二十年、秦の白起楚の西陵を拔き、或は鄢・郢・夷陵を拔き、先王の墓を燒く。王東北に徙り、陳城に保つ、楚遂に削弱し、秦の輕んずる所と爲る。是に於て白起又兵を將ゐて來り伐たんとす。楚人に黃歇なる者有り、游學博聞、襄王以て辯と爲す、故に秦に使す。昭王に說きて曰く、「天下秦・楚より強きは莫し、今大王楚を伐たんと欲すと聞く、此れ猶ほ兩虎相鬥ひて駑犬其の弊を受くるがごとし、楚に善くするに如かず。臣請ふ其の說を言はん。臣之を聞く、『物至れば反る、冬夏是れなり。致りて至れば危ふし、累碁是れなり』と。今大國の地天下に半ばし、二垂有り、此れ生民以來、萬乘の地未だ嘗て有らざるなり。先帝文王・莊王、王の身、三世にして齊に地を接せず、以て從親の要を絕つ。今王三たび盛橋をして韓に事を守らしめ、成橋以北燕に入る。是れ王甲を用ゐず、威を伸べずして、百里の地を出だす、王能と謂ふ可し。王又甲兵を舉げて魏を攻め、大梁の門を杜(ふさ)ぎ、河內を舉げ、燕・酸棗・虛・桃人を拔き、楚・燕の兵云翔して敢へて校せず、王の功亦た多し。王眾を申息すること二年、然る後之を復し、又蒲・衍・首垣を取り、以て仁・平兵に臨み、小黃・濟陽城を嬰(めぐ)らし、魏氏服せり。王又濮・磨の北を割きて之を燕に屬し、齊・秦の要を斷ち、楚・魏の脊を絕つ。天下五たび合し六たび聚まるも敢へて救はず、王の威亦た憚らる。王若し能く功を持し威を守り、攻伐の心を省きて仁義の誡を肥やし、復た後患無からしめば、三王も四に足らず、五伯も六に足らざらん。「王若し人徒の眾きを負み、兵甲の強きを材とし、壹に魏氏の威を毀ちて、力を以て天下の主に臣たらしめんと欲せば、臣恐らくは後患有らん。詩に云ふ、『初め有らざる靡く、克く終り有ること鮮し』と。易に曰く、『狐其の尾を濡らす』と。此れ始の易くして、終の難きを言ふなり。何を以て其の然るを知るや。智氏趙を伐つの利を見て、榆次の禍を知らざりき。吳齊を伐つの便を見て、干隧の敗を知らざりき。此の二國は、大功無きに非ざるなり、利を前に設けて、患を後に易くするなり。呉の越を信ずるや、從ひて齊を伐ち、既に齊人に艾陵に勝ちしも、還りて越王の爲に三江の浦に禽にせられたり。智氏韓・魏を信じ、從ひて趙を伐ち、晉陽の城を攻め、勝つこと日有らんとせしに、韓・魏之に反き、智伯瑤を鑿臺の上に殺せり。今王楚の毀たれざるを妒みて、楚を毀ちて魏を強くするを忘る。臣大王の爲に慮りて取らざるなり。詩に云ふ、『大武は遠宅に涉らず』と。此より之を觀れば、楚國は、援なり。鄰國は、敵なり。詩に云ふ、『他人心有り、予之を忖度す。躍躍たる毚兔、犬に遇ひて獲らる』と。今王中道にして韓・魏の王を善くするを信ず、此れ正に呉の越を信ずるなり。臣聞く、敵は易(あなど)る可からず、時は失ふ可からず、と。臣恐らくは韓・魏の辭を卑くして患を慮るは、實に大國を欺くならん。此れ何ぞや。王既に重世の德韓・魏に無くして、累世の怨有ればなり。韓・魏の父子兄弟踵を接して秦に死する者、百世なり。本國殘れ、社稷壞れ、宗廟隳(こぼ)たれ、腹を刳られ頤を折られ、首身分離し、骨を草澤に暴し、頭顱僵仆し、相ひ境に望み、父子老弱係虜せられて、相ひ路に隨ひ、鬼神狐祥食する所無く、百姓聊生せず、族類離散し、流亡して臣妾と爲る者、海內に滿つ。韓・魏の亡びざるは、秦社稷の憂ひなり。今王の楚を攻むる、亦た失(あやま)たざらんや。是れ王楚を攻むるの日、則ち惡(いづ)くにか兵を出ださん。王將に路を仇讎の韓・魏に藉らんとするか。兵出づるの日にして王其の反らざるを憂へば、是れ王兵を以て仇讎の韓・魏に資するなり。王若し路を仇讎の韓・魏に藉らずんば、必ず陽・右壤を攻めん。陽・右壤に隨へば、此れ皆廣川大水、山林谿谷の不食の地なり、王之を有すと雖も、地を得たりと爲さず。是れ王楚を毀つの名有りて、地を得るの實無きなり。「且つ王楚を攻むるの日、四國必ず應じて悉く起ちて王に應ぜん。秦・楚の構へて離れざるに、魏氏將に兵を出だして留・方與・銍・胡陵・碭・蕭・相を攻めんとし、故宋必ず盡きん。齊人南面し、泗北必ず舉げん。此れ皆平原四達、膏腴の地なり、而して王之をして獨り攻めしむ。王楚を破りて以て韓・魏を中國に肥やして齊を勁からしめば、韓・魏の強きは以て秦に校するに足らん。齊南は泗を以て境と爲し、東は海を負ひ、北は河に倚りて、後患無し、天下の國、齊より強きは莫し。齊・魏地を得て利を葆(たも)ち、詳らかに下吏に事へしめば、一年の後、帝と爲ること未だ能はざるが若きも、以て王の帝と爲るを禁ずるに餘り有らん。夫れ王の壤土の博きを以て、人徒の眾きを以て、兵革の強きを以て、一たび眾を舉げて地を楚に注ぎ、令を韓・魏に詘し、帝の重きを齊に歸せしむるは、是れ王の計を失ふなり。「臣王の爲に慮るに、楚に善くするに如くは莫し。秦・楚合して一と爲り、臨むに韓を以てせば、韓必ず首を授けん。王襟とするに山東の險を以てし、帶とするに河曲の利を以てせば、韓必ず關中の候たらん。是くの若くならば、王十を以て鄭を成し、梁氏心を寒くし、許・鄢陵城を嬰らし、上蔡・召陵往來せざらん。此くの如くならば、魏も亦た關內の候たらん。王一たび楚に善くせば、關內の二萬乘の主齊に地を注ぎ、齊の右壤拱手して取る可し。是れ王の地一に兩海を任じ、天下を要絕するなり。是れ燕・趙齊・楚無くんば、燕・趙無きなり。然る後燕・趙を危動し、齊・楚を持せば、此の四國は、痛みを待たずして服せん。」
-
戦国策・張儀為秦破從連橫張儀、秦の為に従を破りて連衡し、楚王に説きて曰わく、「秦の地天下に半ばし、兵四国に敵し、山を被り河を帯び、四塞以て固と為す。虎賁の士百余万、車千乗、騎万疋、粟丘山の如し。法令既に明らかにして、士卒難に安んじ死を楽しむ。主厳にして以て明らかに、将知にして以て武し。兵甲を出だす無しと雖も、常山の険を席巻し、天下の脊を折らば、天下後に服する者は先んじて亡びん。且つ夫れ従を為す者は、群羊を駆りて猛虎を攻むるに異なる無きなり。夫れ虎の羊に与するや、格せざること明らかなり。今大王猛虎に与せずして群羊に与す、竊かに以て大王の計過てりと為す。「凡そ天下の強国は、秦に非ずんば楚、楚に非ずんば秦なり。両国敵侔して交争し、其の勢い両立せず。而して大王秦に与せずんば、秦甲兵を下し、宜陽に拠り、韓の上地通ぜず、河東に下り、成皋を取らば、韓必ず秦に入臣せん。韓入臣すれば、魏則ち風に従いて動かん。秦楚の西を攻め、韓・魏其の北を攻めば、社稷豈に危うき無きを得んや。「且つ夫れ従を約する者は、群弱を聚めて至強を攻むるなり。夫れ弱を以て強を攻め、敵を料らずして軽く戦い、国貧しくして驟に兵を挙ぐるは、此れ危亡の術なり。臣之を聞く、兵如かざれば、与に挑戦する勿かれ、粟如かざれば、与に持久する勿かれと。夫れ従人なる者は、辯を飾り辞を虚しくし、主の節行を高くし、其の利を言いて其の害を言わず、卒に楚の禍い有るも、為す無きに及ばんのみ、是を以て願わくは大王の熟ら之を計られんことを。「秦西のかた巴蜀有り、船を方べて粟を積み、汶山より起こり、江に循いて下れば、郢に至ること三千余里。舫船卒を載せ、一舫五十人を載せ、三月の糧を与え、水を下りて浮かべば、一日行くこと三百余里、里数多しと雖も、馬汗の労を費やさず、十日に至らずして扞関に距らん。扞関驚けば、則ち竟陵より已東、尽く城守せん、黔中・巫郡は王の有に非ざるのみ。秦甲を挙げて之を武関より出だし、南面して攻めば、則ち北地絶えん。秦兵の楚を攻むるや、危難三月の内に在り。而るに楚は諸侯の救いを恃むも、半歳の外に在り、此れ其の勢い相い及ばざるなり。夫れ弱国の救いを恃みて、強秦の禍いを忘るるは、此れ臣の大王の為に患うる所以なり。且つ大王嘗て呉人と五戦して三勝して之を亡ぼすも、陳卒尽きたり、偏に新城を守るありて居民苦しめり。臣之を聞く、大を攻むる者は危うくなり易く、民弊るる者は上を怨むと。夫れ危うくなり易きの功を守りて、強秦の心に逆らうは、臣竊かに大王の為に之を危ぶむ。「且つ夫れ秦の甲を函谷関に出ださずして十五年、以て諸侯を攻めざる所以の者は、陰謀天下を呑むの心有ればなり。楚嘗て秦と難を構え、漢中に戦う。楚人勝たず、通侯・執珪死する者七十余人、遂に漢中を亡う。楚王大いに怒り、師を興して秦を襲い、藍田に戦うも、又郤く。此れ所謂両虎相い搏つ者なり。夫れ秦・楚相い弊れて、韓・魏全きを以て其の後を制せば、計此に過ぐる者無し、是を以て願わくは大王熟ら之を計られんことを。「秦兵を下して衛・陽晉を攻めば、必ず天下の匈を開扃せん、大王悉く兵を起こして以て宋を攻めば、数月に至らずして宋挙ぐべし。宋を挙げて東を指せば、則ち泗上十二諸侯、尽く王の有ならんのみ。「凡そ天下信じて従親堅しと為す所の者は蘇秦なり、封ぜられて武安君と為り燕に相たりしも、即ち陰かに燕王と斉を破りて共に其の地を分かたんことを謀る。乃ち罪有るを佯りて、出でて走りて斉に入る、斉王因りて受けて之を相とす。居ること二年にして覚れ、斉王大いに怒り、蘇秦を市に車裂す。夫れ一詐偽反覆の蘇秦を以て、天下を経営し、諸侯を混一せんと欲するは、其の成るべからざること亦た明らかなり。「今秦の楚に与するや、境を接し壌を界し、固に形親の国なり。大王誠に能く臣に聴かば、臣請う秦の太子をして楚に入質せしめ、楚の太子をして秦に入質せしめ、請う秦の女を以て大王の箕箒の妾と為し、万家の都を効し、以て湯沐の邑と為し、長く昆弟の国と為り、終身相い攻撃すること無からんことを。臣以為えらく計此より便なる者無しと。故に敝邑の秦王、使臣をして書を大王の従車の下風に献ぜしめ、須って以て事を決せんことを。」楚王曰わく、「楚国僻陋にして、東海の上に託す。寡人年幼くして、国家の長計に習わず。今上客幸いに教うるに明制を以てす、寡人之を聞き、敬んで国を以て従わん。」乃ち使いを遣わして車百乗、雞駭の犀、夜光の璧を秦王に献ず。
-
戦国策・八年謂魏王八年、某、魏王に謂いて曰く、「昔、曹は斉を恃みて晋を軽んじ、斉釐・莒を伐ちて晋人曹を亡ぼす。繒は斉を恃みて以て越に悍がり、斉の和子乱れて越人繒を亡ぼす。鄭は魏を恃みて韓を軽んじ、榆関を伐ちて韓氏鄭を亡ぼす。原は秦・翟を恃みて晋を軽んじ、秦・翟年穀大いに凶にして晋人原を亡ぼす。中山は斉・魏を恃みて趙を軽んじ、斉・魏楚を伐ちて趙中山を亡ぼす。此の五国の亡ぶる所以は、皆其の恃む所なり。独り此の五国のみ然りとする而已に非ざるなり、天下の亡国皆然り。夫れ国の恃むべからざる所以の者多く、其の変勝げて数うべからず。或いは政教脩まらず、上下輯せざるを以て、恃むべからざる者あり。或いは諸侯隣国の虞れ有りて、恃むべからざる者あり。或いは年穀登らず、蓄積竭き尽きるを以て、恃むべからざる者あり。或いは利に化し、患に比す。臣此を以て国の必ず恃むべからざるを知る。今、王楚の強きを恃み、春申君の言を信じ、是を以て秦に質す、而して久しく知るべからず。即し春申君変有らば、是れ王独り秦の患を受くるなり。即し王万乗の国有りて、一人の心を以て命と為すなり。臣此を以て完からずと為す、願わくは王之を熟計せよ。」