戦国策 / 魏魀謂建信君
魏魀謂建信君曰:「人有置係蹄者而得虎。虎怒,決蹯而去。虎之情,非不愛其蹯也。然而不以環寸之蹯,害七尺之軀者,權也。今有國,非直七尺軀也。而君之身於王,非環寸之蹯也。願公之熟圖之也。」
新字:魏魀謂建信君曰:「人有置係蹄者而得虎。虎怒,決蹯而去。虎之情,非不愛其蹯也。然而不以環寸之蹯,害七尺之躯者,権也。今有国,非直七尺躯也。而君之身於王,非環寸之蹯也。願公之熟図之也。」
書き下し
魏魀建信君に謂いて曰く、「人係蹄を置く者有りて虎を得たり。虎怒りて、蹯を決りて去る。虎の情、其の蹯を愛せざるに非ざるなり。然れども環寸の蹯を以て、七尺の軀を害せざる者は、権なり。今国有るは、直だに七尺の軀のみに非ざるなり。而して君の身の王に於けるや、環寸の蹯に非ざるなり。願わくは公之を熟図せんことを」と。
現代語訳
魏魀は建信君に言った。「ある人が罠を仕掛けて、虎を捕らえたことがありました。虎は怒り、自分の足を食いちぎって去っていきました。虎の本心としては、その足を惜しまなかったわけではありません。しかし、輪のように小さな足のために、七尺もある自分の身体全体を損なうことのないようにしたのは、これが状況をわきまえた判断(権)というものです。今、国家というものは、単に七尺の身体どころではない重大なものです。そしてあなた(建信君)ご自身の王に対する立場も、あの輪のような小さな足程度のものではありません。どうか公には、このことをよくよくお考えいただきたいのです。」
解説
この章は、虎が罠にかかった自らの足を食いちぎってでも命を守った故事を引き、魏魀が建信君に大局的な判断を促す短い進言です。小さな部分(足)に固執して全体(命)を失うことの愚かさを譬えとし、国家という重大なものを預かる立場にある者は、目先の小さな利害や体面にとらわれるべきではないと説きます。何を犠牲にしてでも守るべき本質は何かを見極める判断力の重要性を、痛みを伴う虎の決断を通じて印象的に描いており、優先順位を見誤らず、大切なものを守るために小さな損失を受け入れる胆力は、危機的な局面での意思決定において現代にも通じる教訓です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
魏魀建信君決断大局観権
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