戦国策 / 應侯失韓之汝南
應侯失韓之汝南。秦昭王謂應侯曰:「君亡國,其憂乎?」應侯曰:「臣不憂。」王曰:「何也?」曰:「梁人有東門吳者,其子死而不憂,其相室曰:『公之愛子也,天下無有,今子死不憂,何也?』東門吳曰:『吾嘗無子,無子之時不憂;今子死,乃即與無子時同也。臣奚憂焉?』臣亦嘗為子,為子時不憂;今亡汝南,乃與即為梁餘子同也。臣何為憂?」秦王以為不然,以告蒙傲曰:「今也,寡人一城圍,食不甘味,臥不便席,今應侯亡地而言不憂,此其情也?」蒙傲曰:「臣請得其情。」蒙傲乃往見應侯,曰:「傲欲死。」應侯曰:「何謂也?」曰:「秦王師君,天下莫不聞,而況於秦國乎!今傲勢得秦為王將,將兵,臣以韓之細也,顯逆誅,奪君地,傲尚奚生?不若死。」應侯拜蒙傲曰:「願委之卿。」蒙傲以報於昭王。自是之後,應侯每言韓事者,秦王弗聽也,以其為汝南虜也。
新字:応侯失韓之汝南。秦昭王謂応侯曰:「君亡国,其憂乎?」応侯曰:「臣不憂。」王曰:「何也?」曰:「梁人有東門吳者,其子死而不憂,其相室曰:『公之愛子也,天下無有,今子死不憂,何也?』東門吳曰:『吾嘗無子,無子之時不憂;今子死,乃即与無子時同也。臣奚憂焉?』臣亦嘗為子,為子時不憂;今亡汝南,乃与即為梁余子同也。臣何為憂?」秦王以為不然,以告蒙傲曰:「今也,寡人一城囲,食不甘味,臥不便席,今応侯亡地而言不憂,此其情也?」蒙傲曰:「臣請得其情。」蒙傲乃往見応侯,曰:「傲欲死。」応侯曰:「何謂也?」曰:「秦王師君,天下莫不聞,而況於秦国乎!今傲勢得秦為王将,将兵,臣以韓之細也,顕逆誅,奪君地,傲尚奚生?不若死。」応侯拝蒙傲曰:「願委之卿。」蒙傲以報於昭王。自是之後,応侯毎言韓事者,秦王弗聴也,以其為汝南虜也。
書き下し
應侯韓の汝南を失ふ。秦昭王應侯に謂ひて曰く、「君國を亡ふ、其れ憂ふるか。」應侯曰く、「臣憂へず。」王曰く、「何ぞや。」曰く、「梁人に東門吳なる者有り、其の子死して憂へず。其の相室曰く、『公の子を愛するや、天下に有る無し。今子死して憂へざるは、何ぞや。』東門吳曰く、『吾嘗て子無く、子無き時憂へず。今子死す、乃ち子無き時と同じきなり。臣奚をか焉に憂へん。』臣も亦た嘗て子と爲す、子と爲す時憂へず。今汝南を亡ふ、乃ち梁の餘子と爲る時と同じきなり。臣何為れぞ憂へん。」秦王以て然らずと爲し、以て蒙傲に告げて曰く、「今や、寡人一城圍まるるも、食味を甘しとせず、臥して席を便とせず。今應侯地を亡ひて憂へずと言ふ、此れ其の情か。」蒙傲曰く、「臣請ふ其の情を得ん。」蒙傲乃ち往きて應侯を見て曰く、「傲死せんと欲す。」應侯曰く、「何の謂ひぞや。」曰く、「秦王君を師とす、天下聞かざる莫し、而るを況んや秦國に於てをや。今傲勢秦の爲に王將を得て、兵を將ゐ、臣韓の細なるを以て、顯はに逆誅せられ、君の地を奪はば、傲尚ほ奚くんぞ生きん。死するに若かず。」應侯拜して蒙傲に曰く、「願はくは之を卿に委ねん。」蒙傲以て昭王に報ず。是より之後、應侯韓の事を言ふ每に、秦王聽かざるなり、其の汝南の虜爲るを以てなり。
現代語訳
応侯(范雎)は韓にあった自分の領地・汝南を失った。秦の昭王が応侯に言った。「あなたは領地を失った、さぞ心配だろう。」応侯は「私は心配していません」と答えた。王は「なぜか」と尋ねた。応侯は言った。「梁の人に東門吳という者がおり、その子が死んでも心配しませんでした。その家宰が『あなたが子を愛することは天下に並ぶ者がないほどでした。今、子が死んでも心配しないのはなぜですか』と尋ねると、東門吳は『私はかつて子がいなかった。子がいなかった時は心配しなかった。今、子が死んだのは、子がいなかった時と同じ状態に戻っただけだ。私が何を心配することがあろうか』と答えました。私もかつて(汝南という)子のようなものを持っていましたが、それを持っていた時も特に心配しませんでした。今、汝南を失ったのは、かつて梁の一庶民であった時と同じ状態に戻っただけです。私が何を心配することがありましょうか。」秦王はこれを真に受けず、蒙傲に告げて言った。「今、私はたった一つの城が包囲されただけでも、食事は味わえず、寝床でも安らげない。それなのに応侯は領地を失っても心配しないと言う。これは彼の本心だろうか。」蒙傲は「私がその真意を確かめてまいりましょう」と言った。蒙傲はそこで応侯のもとへ行き、「私、傲は死のうと思います」と言った。応侯が「どういうことか」と尋ねると、蒙傲は言った。「秦王があなたを師と仰いでいることは天下の誰もが知らぬ者はありません、まして秦国内をやです。今もし私、傲が秦のために将軍の位を得て兵を率いていながら、韓ごとき小国によって、あなたが公然と反逆者として誅殺され、あなたの領地を奪われるようなことがあれば、私、傲がどうして生きていられましょうか。死ぬしかありません。」応侯は拝礼して蒙傲に言った。「どうかこのことをあなたにお任せしたい。」蒙傲はこれを昭王に報告した。これ以降、応侯が韓に関することを話すたびに、秦王は聞き入れなくなった。応侯が汝南で実質的に虜のような屈辱を受けた者だと見なされたからである。