戦国策 / 應侯失韓之汝南
應侯失韓之汝南。秦昭王謂應侯曰:「君亡國,其憂乎?」應侯曰:「臣不憂。」王曰:「何也?」曰:「梁人有東門吳者,其子死而不憂,其相室曰:『公之愛子也,天下無有,今子死不憂,何也?』東門吳曰:『吾嘗無子,無子之時不憂;今子死,乃即與無子時同也。臣奚憂焉?』臣亦嘗為子,為子時不憂;今亡汝南,乃與即為梁餘子同也。臣何為憂?」秦王以為不然,以告蒙傲曰:「今也,寡人一城圍,食不甘味,臥不便席,今應侯亡地而言不憂,此其情也?」蒙傲曰:「臣請得其情。」蒙傲乃往見應侯,曰:「傲欲死。」應侯曰:「何謂也?」曰:「秦王師君,天下莫不聞,而況於秦國乎!今傲勢得秦為王將,將兵,臣以韓之細也,顯逆誅,奪君地,傲尚奚生?不若死。」應侯拜蒙傲曰:「願委之卿。」蒙傲以報於昭王。自是之後,應侯每言韓事者,秦王弗聽也,以其為汝南虜也。
新字:応侯失韓之汝南。秦昭王謂応侯曰:「君亡国,其憂乎?」応侯曰:「臣不憂。」王曰:「何也?」曰:「梁人有東門吳者,其子死而不憂,其相室曰:『公之愛子也,天下無有,今子死不憂,何也?』東門吳曰:『吾嘗無子,無子之時不憂;今子死,乃即与無子時同也。臣奚憂焉?』臣亦嘗為子,為子時不憂;今亡汝南,乃与即為梁余子同也。臣何為憂?」秦王以為不然,以告蒙傲曰:「今也,寡人一城囲,食不甘味,臥不便席,今応侯亡地而言不憂,此其情也?」蒙傲曰:「臣請得其情。」蒙傲乃往見応侯,曰:「傲欲死。」応侯曰:「何謂也?」曰:「秦王師君,天下莫不聞,而況於秦国乎!今傲勢得秦為王将,将兵,臣以韓之細也,顕逆誅,奪君地,傲尚奚生?不若死。」応侯拝蒙傲曰:「願委之卿。」蒙傲以報於昭王。自是之後,応侯毎言韓事者,秦王弗聴也,以其為汝南虜也。
書き下し
應侯韓の汝南を失ふ。秦昭王應侯に謂ひて曰く、「君國を亡ふ、其れ憂ふるか。」應侯曰く、「臣憂へず。」王曰く、「何ぞや。」曰く、「梁人に東門吳なる者有り、其の子死して憂へず。其の相室曰く、『公の子を愛するや、天下に有る無し。今子死して憂へざるは、何ぞや。』東門吳曰く、『吾嘗て子無く、子無き時憂へず。今子死す、乃ち子無き時と同じきなり。臣奚をか焉に憂へん。』臣も亦た嘗て子と爲す、子と爲す時憂へず。今汝南を亡ふ、乃ち梁の餘子と爲る時と同じきなり。臣何為れぞ憂へん。」秦王以て然らずと爲し、以て蒙傲に告げて曰く、「今や、寡人一城圍まるるも、食味を甘しとせず、臥して席を便とせず。今應侯地を亡ひて憂へずと言ふ、此れ其の情か。」蒙傲曰く、「臣請ふ其の情を得ん。」蒙傲乃ち往きて應侯を見て曰く、「傲死せんと欲す。」應侯曰く、「何の謂ひぞや。」曰く、「秦王君を師とす、天下聞かざる莫し、而るを況んや秦國に於てをや。今傲勢秦の爲に王將を得て、兵を將ゐ、臣韓の細なるを以て、顯はに逆誅せられ、君の地を奪はば、傲尚ほ奚くんぞ生きん。死するに若かず。」應侯拜して蒙傲に曰く、「願はくは之を卿に委ねん。」蒙傲以て昭王に報ず。是より之後、應侯韓の事を言ふ每に、秦王聽かざるなり、其の汝南の虜爲るを以てなり。
現代語訳
応侯(范雎)は韓にあった自分の領地・汝南を失った。秦の昭王が応侯に言った。「あなたは領地を失った、さぞ心配だろう。」応侯は「私は心配していません」と答えた。王は「なぜか」と尋ねた。応侯は言った。「梁の人に東門吳という者がおり、その子が死んでも心配しませんでした。その家宰が『あなたが子を愛することは天下に並ぶ者がないほどでした。今、子が死んでも心配しないのはなぜですか』と尋ねると、東門吳は『私はかつて子がいなかった。子がいなかった時は心配しなかった。今、子が死んだのは、子がいなかった時と同じ状態に戻っただけだ。私が何を心配することがあろうか』と答えました。私もかつて(汝南という)子のようなものを持っていましたが、それを持っていた時も特に心配しませんでした。今、汝南を失ったのは、かつて梁の一庶民であった時と同じ状態に戻っただけです。私が何を心配することがありましょうか。」秦王はこれを真に受けず、蒙傲に告げて言った。「今、私はたった一つの城が包囲されただけでも、食事は味わえず、寝床でも安らげない。それなのに応侯は領地を失っても心配しないと言う。これは彼の本心だろうか。」蒙傲は「私がその真意を確かめてまいりましょう」と言った。蒙傲はそこで応侯のもとへ行き、「私、傲は死のうと思います」と言った。応侯が「どういうことか」と尋ねると、蒙傲は言った。「秦王があなたを師と仰いでいることは天下の誰もが知らぬ者はありません、まして秦国内をやです。今もし私、傲が秦のために将軍の位を得て兵を率いていながら、韓ごとき小国によって、あなたが公然と反逆者として誅殺され、あなたの領地を奪われるようなことがあれば、私、傲がどうして生きていられましょうか。死ぬしかありません。」応侯は拝礼して蒙傲に言った。「どうかこのことをあなたにお任せしたい。」蒙傲はこれを昭王に報告した。これ以降、応侯が韓に関することを話すたびに、秦王は聞き入れなくなった。応侯が汝南で実質的に虜のような屈辱を受けた者だと見なされたからである。
解説
この章句が説くこと
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戦国策・謂應侯曰君禽馬服乎應侯に謂ひて曰く、「君馬服を禽にせしか。」曰く、「然り。」「又即ち邯鄲を圍むか。」曰く、「然り。」「趙亡びなば、秦王王たらん、武安君三公と爲らん。武安君秦の爲に戰ひて勝ち攻めて取る所以の者七十餘城、南は鄢・郢・漢中を亡ぼし、馬服の軍を禽にし、一甲をも亡はず、周・呂望の功と雖も、亦た此に過ぎざるなり。趙亡び、秦王王たり、武安君三公と爲らば、君能く之が下と爲らんか。之が下と爲る無からんと欲すと雖も、固より之を得ざるなり。秦嘗て韓邢を攻め、上黨に困しめしに、上黨の民皆返りて趙の爲にせり。天下の民、秦の民たるを樂しまざるの日固より久し。今趙を攻めなば、北地は燕に入り、東地は齊に入り、南地は楚・魏に入り、則ち秦の得る所一に幾何ぞ。故に因りて之を割くに如かず、因りて以て武安の功と爲さん。」
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戦国策・蔡澤見逐於趙蔡澤趙に逐はれ、韓・魏に入るに、塗に釜鬲を奪はるるに遇ふ。應侯の任ずる鄭安平・王稽、皆重罪を負ふを聞き、應侯內に慚ぢ、乃ち西のかた秦に入る。將に昭王に見えんとするに、人をして宣言せしめて以て應侯を感怒せしめて曰く、「燕の客蔡澤は、天下の駿雄弘辯の士なり。彼一たび秦王に見えなば、秦王必ず之を相として君の位を奪はん。」應侯之を聞き、人をして蔡澤を召さしむ。蔡澤入るに、則ち應侯に揖す、應侯固より快からず、之を見るに及びて、又倨(おご)る。應侯因りて之を讓めて曰く、「子常に我に代りて秦に相たらんと宣言すと、豈に此れ有るか。」對へて曰く、「然り。」應侯曰く、「請ふ其の說を聞かん。」蔡澤曰く、「吁、何ぞ君の見ることの晚きや。夫れ四時の序は、功を成す者去る。夫れ人生まれて手足堅強、耳目聰明聖知なるは、豈に士の願ふ所に非ずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤曰く、「仁を質とし義を秉り、道を行ひ德を天下に施し、天下懷き樂しみて敬愛し、願はくは以て君王と爲さんとするは、豈に辯智の期する所ならずや。」應侯曰く、「然り。」蔡澤復た曰く、「富貴顯榮、萬物を成理し、萬物各々其の所を得しめ、生命壽長にして、其の年を終へて夭傷せず、天下其の統を繼ぎ、其の業を守り、之を傳へて窮まり無く、名實純粹にして、澤千世に流れ、之を稱して絕ゆる毋く、天下と終ふるは、豈に道の符にして、聖人の所謂吉祥善事なるに非ずや。」應侯曰く、「然り。」澤曰く、「秦の商君の若き、楚の吳起、越の大夫種の若きは、其の卒(をはり)も亦た願ふ可きか。」應侯蔡澤の己を困しめんと欲して說くを知り、復た曰く、「何為れぞ不可ならん。夫れ公孫鞅孝公に事へ、身を極めて貳(に)する毋く、公を盡くして私に還らず、賞罰を信にして以て治を致し、智能を竭くし、情素を示し、怨咎を蒙り、舊交を欺き、魏の公子卬を虜にし、卒に秦の爲に將を禽にし、敵軍を破り、地を攘(はら)ふこと千里なり。吳起悼王に事へ、私をして公を害せしめず、讒をして忠を蔽はしめず、言苟合を取らず、行苟容を取らず、義を行ひて毀譽に固まらず、必ず伯主強國有り、禍凶を辭せず。大夫種越王に事へ、主困辱を離るるも、悉く忠にして解けず、主亡絕すと雖も、能を盡くして離れず、功多くして矜らず、貴富にして驕怠せず。此くの若き三子は、義の至り、忠の節なり。故に君子は身を殺して以て名を成す、義の在る所、身死すと雖も、憾悔無し、何為れぞ不可ならん。」蔡澤曰く、「主聖にして臣賢なるは、天下の福なり。君明にして臣忠なるは、國の福なり。父慈にして子孝、夫信にして婦貞なるは、家の福なり。故に比干忠なるも、殷を存する能はず、子胥知なるも、呉を存する能はず、申生孝なるも、晉惑亂す。是れ忠臣孝子有りて、國家滅亂するは、何ぞや。明君賢父の以て之を聽く無ければなり。故に天下其の君父を以て戮辱と爲し、其の臣子を憐れむ。夫れ死を待ちて而して後忠を立て名を成す可きは、是れ微子は仁足らず、孔子は聖足らず、管仲は大足らざるなり。」是に於て應侯善しと稱す。蔡澤少しく間を得て、因りて曰く、「商君・吳起・大夫種、其の人臣爲るや、忠を盡くし功を致せば、則ち願ふ可し。閎夭文王に事へ、周公成王を輔けしは、豈に亦た忠ならざらんや。君臣を以て之を論ずれば、商君・吳起・大夫種の、其の願ふ可き閎夭・周公と孰與(いづ)れぞや。」應侯曰く、「商君・吳起・大夫種は若かざるなり。」蔡澤曰く、「然らば則ち君の主、慈仁にして忠を任じ、舊故を欺かざること、秦の孝公・楚の悼王・越王と孰與れぞや。」應侯曰く、「未だ何如なるかを知らざるなり。」蔡澤曰く、「主の忠臣を親しむ、固より秦孝・越王・楚悼に過ぎず。君の主爲るや、亂を正し患を批(う)ち難を折り、地を廣め穀を殖やし、國を富ませ家を足らしめ主を強くし、威海內を蓋ひ、功萬里の外に章(あら)はるるは、商君・吳起・大夫種に過ぎず。而して君の祿位貴盛にして、私家の富三子に過ぐるも、身退かず、竊かに君の爲に之を危ぶむ。語に曰く、『日中すれば則ち移り、月滿つれば則ち虧く』と。物盛んなれば則ち衰ふるは、天の常數なり。進退・盈縮・變化は、聖人の常道なり。昔者、齊桓公九たび諸侯を合し、一たび天下を匡すも、葵丘の會に至りて、驕矜の色有り、畔く者九國なり。吳王夫差天下に適する無く、諸侯を輕んじ、齊・晉を凌ぎ、遂に身を殺し國を亡ぼせり。夏育・太史啟叱呼して三軍を駭かすも、然れども身庸夫に死せり。此れ皆盛を極むるに乘じて道理に及ばざればなり。夫れ商君孝公の爲に權衡を平らかにし、度量を正しくし、輕重を調へ、阡陌を決裂し、民に耕戰を教ふ、是を以て兵動きて地廣まり、兵休みて國富み、故に秦天下に敵無く、威を諸侯に立てり。功已に成り、遂に車裂を以てせらる。楚の地戟を持する者百萬なるに、白起數萬の師を率ゐて、以て楚と戰ひ、一戰して鄢・郢を舉げ、再戰して夷陵を燒き、南は蜀・漢を并せ、又韓・魏を越えて強趙を攻め、北に馬服を坑にし、四十餘萬の眾を誅屠し、流血川を成し、沸聲雷の若く、秦をして帝を業とせしむ。是より之後、趙・楚懾服して、敢へて秦を攻めざる者は、白起の勢なり。身の服する所の者、七十餘城なり。功已に成れるに、死を杜郵に賜はる。吳起楚悼の爲に無能を罷め、無用を廢し、不急の官を損じ、私門の請を塞ぎ、楚國の俗を壹にし、南は楊越を攻め、北は陳・蔡を并せ、橫を破り從を散じ、馳說の士をして口を開く所無からしむ。功已に成れるに、卒に支解せらる。大夫種越王の爲に草を墾き邑を創め、地を辟き穀を殖やし、四方の士を率ゐ、上下の力を合はせ、以て勁呉を禽にし、霸功を成す。勾踐終に棓(つゑ)にて之を殺せり。此の四子は、功を成して去らず、禍此に至れり。此れ所謂信じて詘する能はず、往きて反る能はざる者なり。范蠡之を知りて、超然として世を避け、長く陶朱と爲れり。君獨り博する者を觀ざるか。或は大投を分たんと欲し、或は功を分たんと欲す。此れ皆君の明らかに知る所なり。今君秦に相たり、計は席を下らず、謀は廊廟を出でずして、坐しながら諸侯を制し、利は三川に施し、以て宜陽を實たし、羊腸の險を決し、太行の口を塞ぎ、又范・中行の途を斬り、棧道千里なるを蜀・漢に通じ、天下をして皆秦を畏れしむ。秦の欲する所は得たり、君の功は極まれり。此れ亦た秦の功を分つの時なり。是くの如くにして退かずんば、則ち商君・白公・吳起・大夫種是れなり。君何ぞ此の時を以て相印を歸し、賢者に讓りて之を授けざる、必ず伯夷の廉有らん。長く應侯と爲り、世世孤と稱し、喬・松の壽有らん。孰與(いづ)れぞ禍を以て終ふると。此れ則ち君何くにか居らん。」應侯曰く、「善し。」乃ち延(ひ)き入れて坐せしめ上客と爲す。後數日、朝に入り、秦昭王に言ひて曰く、「客新たに山東より來る者に蔡澤有り、其の人辯士なり。臣の人を見ること甚だ眾きも、及ぶ者有る莫し、臣如かざるなり。」秦昭王召見し、與に語りて、大いに之を說び、拜して客卿と爲す。應侯因りて病と謝し、相印を歸さんことを請ふ。昭王彊ひて應侯を起こすも、應侯遂に篤しと稱し、因りて相を免ぜらる。昭王新たに蔡澤の計畫を說び、遂に拜して秦の相と爲し、東のかた周室を收む。蔡澤秦王に相たること數月、人或は之を惡み、誅を懼れ、乃ち病と謝して相印を歸し、號して剛成君と爲る。秦に十餘年、昭王・孝文王・莊襄王に事へ、卒に始皇帝に事ふ。秦の爲に燕に使し、三年にして燕太子丹をして秦に入質せしむ。
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戦国策・應侯謂昭王應侯昭王に謂ひて曰く、「亦た恆思に神叢有るを聞くか。恆思に悍少年有り、叢と博せんことを請ひて曰く、『吾叢に勝たば、叢我に神を籍すこと三日せん。叢に勝たずんば、叢我を困しめん。』乃ち左手叢の爲に投げ、右手自ら爲に投げ、叢に勝ちて、其の神を籍る。三日にして、叢往きて之を求むるも、遂に歸さず。五日にして叢枯れ、七日にして叢亡ぶ。今國なる者は、王の叢なり。勢なる者は、王の神なり。人に籍すこと此くの如くにして、危ふき無きを得んや。臣未だ嘗て指の臂より大にして、臂の股より大なるを聞かず。若し此れ有らば、則ち病必ず甚だし。百人瓢を輿(かつ)ぎて趨るは、一人持ちて走ること疾きに如かず。百人誠に瓢を輿げば、瓢必ず裂けん。今秦國、華陽も之を用ゐ、穰侯も之を用ゐ、太后も之を用ゐ、王も亦た之を用ゐる。瓢を稱して器と爲さずんば則ち已まん。已に瓢を稱して器と爲さば、國必ず裂けん。臣之を聞く、『木の實繁き者は枝必ず披き、枝の披く者は其の心を傷つく。都の大なる者は其の國を危くし、臣の強き者は其の主を危くす。』と。其れ邑中斗食より以上、尉・內史及び王の左右に至るまで、相國の人に非ざる者有りや。國事無くんば則ち已まん。國事有らば、臣必ず王の庭に獨立するを聞見せん。臣竊かに王の爲に恐る、萬世の後國を有つ者の、王の子孫に非ざらんことを恐る。「臣聞く、古の善く政を爲むるや、其の威內に扶(たす)け、其の輔外に布き、四たび政を治めて亂れず逆はず、使者は道を直くして行き、敢へて非を爲さず、と。今太后の使者、諸侯を分裂し、符を天下に布き、大國の勢を操り、強ひて兵を徵し、諸侯を伐つ。戰ひて勝ち攻めて取れば、利盡く陶に歸す。國の幣帛は、竭く太后の家に入り、竟內の利は、分ちて華陽に移す。古の所謂『主を危くし國を滅ぼすの道』必ず此より起こる。三貴國を竭くして以て自ら安んず。然らば則ち令何ぞ王より出づるを得ん、權何ぞ分たるる毋きを得ん。是れ我が王果して三分の一に處るなり。」
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戦国策・秦攻韓圍陘秦韓を攻め、陘を圍む。范睢秦昭王に謂ひて曰く、「人を攻むる者有り、地を攻むる者有り。穰侯十たび魏を攻めて傷つくるを得ざる者は、秦弱くして魏強きに非ざるなり、其の攻むる所の者、地なればなり。地なる者は、人主の甚だ愛する所なり。人主なる者は、人臣の樂しみて死する所なり。人主の愛する所を攻め、樂しみて死する者と鬥へば、故に十たび攻めて勝つ能はざるなり。今王將に韓を攻めて陘を圍まんとす、臣願はくは王の獨り其の地を攻めずして、其の人を攻めんことを。王韓を攻め陘を圍むに、張儀を以て言と爲せ。張儀の力多くんば、且つ地を削りて以て自ら王に贖ひ、幾んど地を割きて韓盡きざらん。張儀の力少なくんば、則ち王張儀を逐ひ、更に張儀に如かざる者と市せよ。則ち王の韓に求むる所の者、言ひて得可きなり。」
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戦国策・范睢至秦范睢秦に至る、王庭に迎へ、范睢に謂ひて曰く、「寡人宜しく身を以て令を受くること久しかるべし。今義渠の事急なれば、寡人日々自ら太后に請ふ。今義渠の事已(や)みぬれば、寡人乃ち身を以て命を受くるを得たり。躬(み)づから竊かに閔然として不敏なるも、敬んで賓主の禮を執らん。」范睢辭讓す。是の日范睢を見るに、見る者變色易容せざる無し。秦王左右を屏(しりぞ)け、宮中虛しくして人無く、秦王跪きて請ひて曰く、「先生何を以てか寡人に教ふるを幸ひせん。」范睢曰く、「唯唯。」間有りて、秦王復た請ふ、范睢曰く、「唯唯。」是くの若き者三たびす。秦王跽(ひざまづ)きて曰く、「先生幸ひに寡人に教へざるか。」范睢謝して曰く、「敢へて然るに非ざるなり。臣聞く、始め呂尚の文王に遇へるや、身漁父と為りて渭陽の濱に釣りせしのみ。是くの若きは交疏なり。已に一說して立ちて太師と為り、載せて俱に歸る者は、其の言深ければなり。故に文王果して功を呂尚に收め、卒に天下を擅にして身帝王と立てり。即し文王呂望を疏んじて與に深く言はざらしめば、是れ周に天子の德無く、文・武與に其の王を成す無からん。今臣は羇旅の臣にして、王に交疏し、而して願はくは陳ぜんとする所は、皆君を匡すの事にして、人の骨肉の間に處る。願はくは臣の陋忠を陳べんとするも、未だ王の心を知らざるなり。王三たび問ひて對へざる所以は是れなり。臣畏るる所有りて敢へて言はざるに非ざるなり。今日之を前に言ひて、明日之に伏誅せらるるを知るも、然れども臣敢へて畏れざるなり。大王信じて臣の言を行はば、死すとも以て臣の患ひと爲すに足らず、亡ぶとも以て臣の憂ひと爲すに足らず、身に漆して厲(らい)と爲り、髮を被りて狂と爲るも、以て臣の恥と爲すに足らず。五帝の聖にして死し、三王の仁にして死し、五伯の賢にして死し、烏獲の力にして死し、奔・育の勇にして死せり。死は人の必ず免れざる所なり。必然の勢に處りて、以て少しく秦に補ふ有る可くんば、此れ臣の大いに願ふ所なり、臣何をか患へん。伍子胥は橐に載せられて昭關を出で、夜行きて晝伏し、蔆水に至りて以て其の口を餌ふ無く、坐行蒲服して、食を呉市に乞ひ、卒に呉國を興し、闔廬を覇たらしめたり。臣をして謀を進むること伍子胥の如きを得しめ、之に幽囚を加へて、終身復た見えざるとも、是れ臣の說の行はるるなり、臣何をか憂へん。箕子・接輿は、身に漆して厲と爲り、髮を被りて狂と爲るも、殷・楚に益無かりき。臣をして箕子・接輿と行を同じくするを得しめ、身に漆すること以て賢とする所の主に補ふ可くんば、是れ臣の大榮なり、臣又何をか恥ぢん。臣の恐るる所は、獨り臣死するの後、天下臣の忠を盡くして身蹶(たふ)るるを見んことを恐るるなり。是を以て口を杜(と)ぢ足を裹みて、肯へて秦に即く莫きのみ。足下上は太后の嚴を畏れ、下は姦臣の態に惑ひ、深宮の中に居りて保傅の手を離れず、終身闇惑して與に姦を照らす無く、大なる者は宗廟滅覆し、小なる者は身以て孤危なり。此れ臣の恐るる所のみ。若し夫れ窮辱の事、死亡の患ひの若きは、臣敢へて畏れざるなり。臣死して秦治まらば、生けるより賢れり。」秦王跽きて曰く、「先生是れ何の言ぞや。夫れ秦國は僻遠にして、寡人は愚にして不肖なり。先生乃ち幸ひに此に至る、此れ天寡人を以て先生を慁(わづら)はし、先王の廟を存せしむるなり。寡人先生に命を受くるを得るは、此れ天の先王を幸ひして其の孤を棄てざる所以なり。先生奈何ぞ言ふこと此くの若くなる。事の大小と無く、上は太后に及び、下は大臣に至るまで、願はくは先生悉く以て寡人に教へ、寡人を疑ふ無かれ。」范睢再拜す、秦王も亦た再拜す。范睢曰く、「大王の國は、北に甘泉・谷口有り、南に涇・渭を帶び、右に隴・蜀、左に關・阪あり。戰車千乘、奮擊百萬。秦卒の勇、車騎の多きを以て、以て諸侯に當らば、譬へば韓盧を馳せて蹇兔を逐ふが若し。霸王の業致す可し。今反りて閉ぢて敢へて兵を山東に窺はざる者は、是れ穰侯國の爲に謀りて忠ならず、大王の計に失ふ所有ればなり。」王曰く、「願はくは失ふ所の計を聞かん。」睢曰く、「大王韓・魏を越えて強齊を攻むるは、計に非ざるなり。師を出だすこと少なければ、則ち以て齊を傷つくるに足らず。之を多くすれば則ち秦を害す。臣意ふに王の計、師を出だすこと少なくして、韓・魏の兵を悉くせんと欲するは則ち不義なり。今與國の親しむ可からざるを見て、人の國を越えて攻む、可ならんや。計に疏きなり。昔者、齊人楚を伐ちて、戰ひて勝ち、軍を破り將を殺し、地を再辟すること千里なるも、膚寸の地も得る者無かりき。豈に齊地を欲せざらんや、形有つ能はざればなり。諸侯齊の罷露するを見て、君臣の親しまざるを見て、兵を舉げて之を伐ち、主辱められ軍破れ、天下の笑ひと爲れり。然る所以の者は、其の楚を伐ちて韓・魏を肥やせばなり。此れ所謂『賊に兵を藉し盜に食を齎す』者なり。王は遠く交はりて近く攻むるに如かず、寸を得れば則ち王の寸なり、尺を得れば則ち王の尺なり。今此を舍てて遠く攻む、亦た繆(あやま)らざらんや。且つ昔者、中山の地、方五百里、趙獨り之を擅にす。功成り名立ち利附けば、則ち天下能く害する莫し。今韓・魏は、中國の處にして天下の樞なり。王若し霸たらんと欲せば、必ず中國に親しみて以て天下の樞と爲し、以て楚・趙を威(おど)すべし。趙彊ければ則ち楚附き、楚彊ければ則ち趙附く。楚・趙附けば則ち齊必ず懼れ、懼るれば必ず辭を卑くし幣を重くして以て秦に事へん。齊附きて韓・魏虛にす可きなり。」王曰く、「寡人魏に親しまんと欲するも、魏は變多きの國なり、寡人親しむ能はず。請ふ魏に親しむこと奈何と問はん。」范睢曰く、「辭を卑くし幣を重くして以て之に事へよ。不可ならば地を削りて之に賂せよ。不可ならば兵を舉げて之を伐て。」是に於て兵を舉げて邢丘を攻め、邢丘拔けて魏附くを請ふ。曰く、「秦・韓の地形は、相錯はること繡の如し。秦の韓有るは、木の蠹有るが若く、人の心腹を病むがごとし。天下變有らば、秦の爲に害を爲す者は韓より大なるは莫し。王は韓を收むるに如かず。」王曰く、「寡人韓を收めんと欲するも聽かず、之を爲すこと奈何せん。」范睢曰く、「兵を舉げて滎陽を攻むれば、則ち成睪の路通ぜず。北に太行の道を斬らば則ち上黨の兵下らず。一たび舉げて榮陽を攻むれば、則ち其の國斷ちて三と爲らん。魏・韓必ず亡ぶるを見ば、焉んぞ聽かざるを得んや。韓聽けば霸の事成る可し。」王曰く、「善し。」范睢曰く、「臣山東に居りしとき、齊の內に田單有るを聞くも、其の王有るを聞かず。秦に太后・穰侯・涇陽・華陽有るを聞くも、其の王有るを聞かず。夫れ國を擅にする之を王と謂ひ、能く利害を專らにする之を王と謂ひ、殺生の威を制する之を王と謂ふ。今太后行を擅にして顧みず、穰侯使を出だして報ぜず、涇陽・華陽擊斷して諱む無し。四貴備はりて國危からざる者、未だ之有らざるなり。此の四者の爲にすれば、下乃ち所謂王無きのみ。然らば則ち權焉んぞ傾かざるを得んや、令焉んぞ王より出づるを得んや。臣聞く、『善く國を爲むる者は、內に其の威を固くし、外に其の權を重くす』と。穰侯の使者は王の重きを操り、諸侯を決裂し、天下に符を剖ち、敵を征し國を伐ち、敢へて聽かざる莫し。戰ひて勝ち攻めて取れば、則ち利陶に歸す。國弊るれば、諸侯に御せられ、戰ひて敗るれば、則ち怨み百姓に結び、禍ひ社稷に歸す。詩に曰く、『木の實繁き者は其の枝を披き、其の枝を披く者は其の心を傷つく。其の都を大にする者は其の國を危くし、其の臣を尊くする者は其の主を卑くす。』と。淖齒齊の權を管し、閔王の筯を縮め、之を廟梁に縣け、宿昔にして死せり。李兌趙を用ゐ、主父の食を減じ、百日にして餓死せり。今秦、太后・穰侯事を用ゐ、高陵・涇陽之を佐け、卒に秦王無し。此れ亦た淖齒・李兌の類のみ。臣今王の廟朝に獨立するを見る。且つ臣將に後世秦國を有つ者、王の子孫に非ざるを恐れんとす。」秦王懼れ、是に於て乃ち太后を廢し、穰侯を逐ひ、高陵を出だし、涇陽を關外に走らしむ。昭王范睢に謂ひて曰く、「昔者、齊公管仲を得て、時に以て仲父と爲す。今吾子を得て、亦た以て父と爲さん。」
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史記 穰侯列伝昭王三十六年、相国穰侯客卿灶に言ひ、斉を伐ちて剛・壽を取り、以て其の陶邑を広めんと欲す。是に於いて魏人范睢自ら張祿先生と謂ひ、穰侯の斉を伐つを譏り、乃ち三晋を越えて以て斉を攻むるなりとし、此の時を以て秦の昭王に奸説す。昭王是に於いて范睢を用ふ。范睢言ふ、宣太后専制し、穰侯諸侯に権を擅にし、涇陽君・高陵君の属太だ侈にして、王室より富む、と。是に於いて秦の昭王悟り、乃ち相国を免じ、涇陽の属をして皆関を出でて封邑に就かしむ。穰侯関を出づるに、輜車千乗有余。穰侯陶に卒し、因りて焉に葬る。秦復た陶を収めて郡と為す。