呂氏春秋 / 不苟⑤
晉文公將伐鄴,趙衰言所以勝鄴之術,文公用之,果勝。還,將行賞。衰曰:「君將賞其本乎?賞其末乎?賞其末則騎乘者存,賞其本則臣聞之郤子虎。」文公召郤子虎曰:「衰言所以勝鄴,鄴既勝,將賞之,曰:『蓋聞之於子虎,請賞子虎。』」子虎曰:「言之易,行之難。臣言之者也。」公曰:「子無辭。」郤子虎不敢固辭,乃受矣。凡行賞欲其博也,博則多助。今虎非親言者也,而賞猶及之,此疏遠者之所以盡能竭智者也。晉文公亡久矣,歸而因大亂之餘,猶能以霸,其由此歟?
新字:晋文公将伐鄴,趙衰言所以勝鄴之術,文公用之,果勝。還,将行賞。衰曰:「君将賞其本乎?賞其末乎?賞其末則騎乗者存,賞其本則臣聞之郤子虎。」文公召郤子虎曰:「衰言所以勝鄴,鄴既勝,将賞之,曰:『蓋聞之於子虎,請賞子虎。』」子虎曰:「言之易,行之難。臣言之者也。」公曰:「子無辞。」郤子虎不敢固辞,乃受矣。凡行賞欲其博也,博則多助。今虎非親言者也,而賞猶及之,此疏遠者之所以尽能竭智者也。晋文公亡久矣,帰而因大乱之余,猶能以覇,其由此歟?
書き下し
晉の文公將に鄴を伐たんとす。趙衰、鄴に勝つ所以の術を言う。文公之を用う。果して勝つ。還り、將に賞を行わんとす。衰曰く、「君將に其の本を賞せんとするか、其の末を賞せんとするか。其の末を賞せば、則ち騎乘の存し、其の本を賞せば、則ち臣、之を郤子虎に聞けり。」文公、郤子虎を召して曰く、「衰、鄴に勝つ所以を言う。鄴既に勝つ。將に之を賞せんとするや、曰く、『蓋し之を子虎に聞けり。請う子虎を賞せよ。』」子虎曰く、「之を言うは易く、之を行うは難し。臣は之を言う者なり。」公曰く、「子、辭すること無かれ。」郤子虎、敢て固辭せず。乃ち受く。凡そ賞を行うは其の博きを欲す。博ければ則ち助多し。今、虎は親しく言う者に非ず、而も賞猶ほ之に及べり。此れ疏遠の者の能を盡くし智を竭くす所以の者なり。晉の文公の亡すること久しく、歸りて大亂の餘に因り、猶ほ能く以て霸たりしは、其れ此に由るか。
現代語訳
晋の文公が鄴を討とうとした。趙衰が鄴に勝つ方策を進言し、文公はそれを用いて、はたして勝った。帰還して恩賞を行おうとすると、趙衰は言った、「君は本(策の源)を賞されますか、末(実行した者)を賞されますか。末を賞するなら実際に戦った騎乗の者がいます。本を賞するなら、臣はこの策を郤子虎から聞いたのです」。文公は郤子虎を召して言った、「趙衰が鄴に勝つ策を進言し、勝った。賞そうとすると、『これは子虎から聞いた、子虎を賞してほしい』と言う」。子虎は「言うのは易く、行うのは難しい。臣は言っただけの者です」と辞退した。文公は「辞退するな」と言い、子虎はあえて固辞せず受けた。およそ恩賞は広く行き渡らせたい。広ければ助けも多い。今、子虎は自ら進言した者でないのに賞が及んだ。これこそ、縁遠い者までが力と知恵を尽くすようになるゆえんである。晋の文公は長く亡命し、帰国して大乱の後を受けながらなお覇者となれたのは、こうした点によるのだろう。
解説
この章句が説くこと
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史記 田儋列伝斉の将田都、従ひて共に趙を救ひ、因りて関に入る。故に都を立てて斉王と為し、臨淄に治せしむ。故の斉王建の孫田安は、項羽方に河を渡りて趙を救ふとき、田安済北の数城を下し、兵を引ゐて項羽に降る。項羽田安を立てて済北王と為し、博陽に治せしむ。田栄は項梁に負きて兵を出し楚・趙を助けて秦を攻むるを肯ぜざりしを以て、故に王たるを得ず。趙の将陳余も亦職を失ひ、王たるを得ず。二人倶に項王を怨む。項王既に帰り、諸侯各国に就くや、田栄人をして兵を将ゐて陳余を助けしめ、趙の地に反せしめ、而して栄も亦兵を発して以て田都を距ぎ撃つ。田都亡げて楚に走る。田栄斉王市を留め、膠東に之かしむること無し。市の左右曰く、「項王は強暴なり。而るに王は当に膠東に之くべきに、国に就かずんば、必ず危ふからん」と。市懼れ、乃ち亡げて国に就く。田栄怒り、追ひ撃ちて斉王市を即墨に殺し、還りて済北王安を攻め殺す。是に於て田栄乃ち自立して斉王と為り、尽く三斉の地を并す。項王之を聞き、大いに怒り、乃ち北のかた斉を伐つ。斉王田栄兵敗れ、平原に走る。平原の人栄を殺す。項王遂に斉の城郭を焼夷し、過ぐる所の者尽く之を屠る。斉人相ひ聚まりて之に畔く。栄の弟横、斉の散兵を収め、数万人を得て、反りて項羽を城陽に撃つ。而して漢王諸侯を率ゐて楚を敗り、彭城に入る。項羽之を聞き、乃ち斉を釈きて帰り、漢を彭城に撃ち、因りて連りに漢と戦ひ、滎陽に相ひ距ぐ。以ての故に田横復た斉の城邑を収むるを得、田栄の子広を立てて斉王と為し、而して横之に相たり。国政を専らにし、政巨細と無く皆相に断ぜらる。横斉を定むること三年、漢王酈生をして往きて斉王広及び其の相国横を説き下さしむ。横以て然りと為し、其の歴下の軍を解く。漢の将韓信兵を引ゐて且に東のかた斉を撃たんとす。
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『春秋左氏伝』荘公二十一年 鄭伯、王に怨む二十一年春、弭に胥命す。夏、同に王城を伐つ。鄭伯王を將ゐて、圉門より入り、虢叔北門より入り、王子頹及び五大夫を殺す。鄭伯王を闕西辟に享し、樂備はる。王之に武公の略を與ふ、虎牢より以東なり。原伯曰く、「鄭伯尤に效ふ、其れ亦た將に咎有らんとす」と。五月、鄭の厲公卒す。王虢の守に巡る。虢公王の爲に宮を玤に爲り、王之に酒泉を與ふ。鄭伯の王を享するや、王后の鞶鑒を以って之に予ふ。虢公器を請ひ、王之に爵を予ふ。鄭伯是に由りて始めて王を惡む。冬、王虢より歸る。
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『春秋左氏伝』僖公二十四年 介之推の隠遁晉侯亡に從ふ者を賞す。介之推祿を言はず、祿も亦た及ばず。推曰く、「獻公の子九人、唯だ君のみ在り。惠・懷は親無く、外內之を棄つ。天未だ晉を絕たず、必ず將に主有らんとす。晉の祀を主る者は、君に非ずして誰ぞ。天實に之を置く、而るに二三子以て己の力と為す、亦た誣ひならずや。人の財を竊むすら、猶ほ之を盜と謂ふ、況んや天の功を貪りて以て己の力と為すをや。下は其の罪を義とし、上は其の姦を賞す。上下相蒙く、與に處り難し」と。其の母曰く、「盍ぞ亦た之を求めざる。以て死すとも誰をか懟まん」と。對へて曰く、「尤めて之に效ふは、罪又甚だし。且つ怨言を出だせり、其の食を食まず」と。其の母曰く、「亦た之を知らしめば、若何」と。對へて曰く、「言は、身の文なり。身將に隱れんとす、焉んぞ之を文るを用ゐん。是れ顯はるるを求むるなり」と。其の母曰く、「能く是くの如くならんか。女と偕に隱れん」と。遂に隱れて死す。晉侯之を求めて獲ず、綿上を以て之が田と為して、曰く、「以て吾が過ちを志し、且つ善人を旌さん」と。鄭の滑に入るや、滑人命を聽く。師還れば、又衛に即く。鄭の公子士・洩堵俞彌師を帥ゐて滑を伐つ。王伯服・游孫伯をして鄭に如きて滑を請はしむ。鄭伯惠王の入りて厲公に爵を與へざるを怨み、又襄王の衛・滑に與するを怨む。故に王命を聽かずして二子を執ふ。王怒りて、將に狄を以て鄭を伐たんとす。
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『春秋左氏伝』定公九年 東郭書と犁彌、功を譲る秋、齊侯、晉の夷儀を伐つ。敝無存の父、將に之に室せんとす。辭して以て其の弟に與へて曰く、「此の役や、死せずんば、反りて必ず高・國に取らん」と。先登して、門より出でんことを求め、霤下に死す。東郭書、登るを讓る。犁彌、之に從ひて曰く、「子は讓りて左せよ、我は讓りて右せん。登る者をして絕えしめて後に下らん」と。書は左し、彌は先に下る。書、王猛と息ふ。猛曰く、「我、先に登れり」と。書、甲を斂めて曰く、「曩者の難あり、今又難ぜんとす」と。猛、笑ひて曰く、「吾、子に從はん、驂の靳に如かん」と。晉の車千乘、中牟に在り。衛侯、將に五氏に如かんとし、之を過ぐることを卜す。龜焦ぐ。衛侯曰く、「可なり。衛の車、其の半ばに當たり、寡人、其の半ばに當たらば、敵せん」と。乃ち中牟を過ぐ。中牟の人、之を伐たんと欲す。衛の褚師圃、亡げて中牟に在り。曰く、「衛は小なりと雖も、其の君在り、未だ勝つべからざるなり。齊の師は城に克ちて驕り、其の帥又賤し。遇はば必ず之を敗らん。齊に從ふに如かず」と。乃ち齊の師を伐ちて之を敗る。齊侯、禚・媚・杏を衛に致す。齊侯、犁彌を賞す。犁彌辭して曰く、「先に登る者有り、臣、之に從ふ。皙幘にして貍製を衣る」と。公、東郭書を視しむ。曰く、「乃ち夫子なり。吾、子に貺らん」と。公、東郭書を賞す。辭して曰く、「彼は賓旅なり」と。乃ち犁彌を賞す。齊の師の夷儀に在るや、齊侯、夷儀の人に謂ひて曰く、「敝無存を得る者は、五家を以て免ぜん」と。乃ち其の尸を得。公、三たび之に襚し、之に犀軒と直蓋とを與へて、先づ之を歸す。引く者を坐せしめ、師を以て之を哭し、親ら之を推すこと三たびす。
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史記 大宛列伝軍正趙始成を光禄大夫と為し、上官桀を少府と為し、李哆を上党太守と為す。軍の官吏の九卿と為る者三人、諸侯の相・郡守・二千石の者百余人、千石以下千余人。奮ひて行く者は官其の望みに過ぎ、適を以て過ちて行く者は皆其の労を絀(しりぞ)く。士卒に賜ふこと直四万金。宛を伐つこと再び反り、凡そ四歳にして罷むるを得たり。漢已に宛を伐ち、昧蔡を立てて宛王と為して去る。歳余にして、宛の貴人以為へらく、昧蔡は善く諛ひ、我が国をして屠らるるに遇はしむと。乃ち相与に昧蔡を殺し、毋寡の昆弟蟬封と曰ふを立てて宛王と為し、而して其の子を遣はして漢に入質せしむ。漢因りて使ひをして賂賜せしめ以て之を鎮撫す。而して漢、使ひ十余輩を発して宛の西の諸外国に至らしめ、奇物を求め、因りて伐宛の威徳を風覧せしむ。而して敦煌に酒泉都尉を置き、西のかた塩水に至るまで、往往にして亭有り。而して侖頭に田卒数百人有り、因りて使者を置きて田を護り粟を積ましめ、以て外国に使ひする者に給す。
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史記 蕭相国世家列侯畢く已に封を受け、位次を奏するに及び、皆曰く、「平陽侯曹参は身に七十創を被り、城を攻め地を掠め、功最も多し、宜しく第一なるべし」と。上已に功臣を橈め、多く蕭何を封じ、位次に至りては未だ以て複た之を難ずる有らず、然れども心に何を第一にせんと欲す。関内侯鄂君進みて曰く、「群臣の議皆誤れり。夫れ曹参は野戦略地の功有りと雖も、此れ特だ一時の事なり。夫れ上楚と相距ぐこと五歳、常に軍を失ひ衆を亡ひ、身を逃れて遁るる者数々なり。然れども蕭何常に関中より軍を遣はして其の処を補ふ、上の詔令して召す所に非ずして、数万の衆上の乏絶に会する者数々なり。夫れ漢楚と滎陽を相守ること数年、軍に見糧無し、蕭何関中より転漕し、食を給して乏しからず。陛下数々山東を亡ふと雖も、蕭何常に関中を全うして以て陛下を待つ、此れ万世の功なり。今曹参等百数を亡ふと雖も、何ぞ漢に缺けん。漢之を得るも必ずしも待ちて以て全からず。奈何ぞ一旦の功を以て万世の功に加へんと欲するや。蕭何第一、曹参之に次ぐ」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち蕭何に令し、剣を帯び履をはきて殿に上り、朝に入りて趨らざることを賜ふ。上曰く、「吾聞く、賢を進むる者は上賞を受くと。蕭何の功高しと雖も、鄂君を得て乃ち益々明らかなり」と。是に於て鄂君の故の食む所の関内侯の邑に因りて封じて安平侯と為す。是の日、悉く何の父子兄弟十余人を封じ、皆食邑有り。乃ち何を益封すること二千戸、帝の嘗て咸陽に繇せし時何我を送るに独り銭二を贏せしを以てなり。漢十一年、陳豨反き、高祖自ら将ゐ、邯鄲に至る。未だ罷まず、淮陰侯関中に反かんと謀る、呂后蕭何の計を用ひ、淮陰侯を誅す、語は淮陰の事の中に在り。上已に淮陰侯の誅を聞き、使をして丞相何を拝して相国と為さしめ、益封すること五千戸、卒五百人一都尉をして相国の衛と為さしむ。諸君皆賀す、召平独り弔す。

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