呂氏春秋 / 察賢②
宓子賤治單父,彈鳴琴,身不下堂而單父治。巫馬期以星出,以星入,日夜不居,以身親之,而單父亦治。巫馬期問其故於宓子。宓子曰:「我之謂任人,子之謂任力。任力者故勞,任人者故逸。」宓子則君子矣,逸四肢,全耳目,平心氣,而百官以治義矣,任其數而已矣。巫馬期則不然,弊生事精,勞手足,煩教詔,雖治猶未至也。
新字:宓子賤治単父,弾鳴琴,身不下堂而単父治。巫馬期以星出,以星入,日夜不居,以身親之,而単父亦治。巫馬期問其故於宓子。宓子曰:「我之謂任人,子之謂任力。任力者故労,任人者故逸。」宓子則君子矣,逸四肢,全耳目,平心気,而百官以治義矣,任其数而已矣。巫馬期則不然,弊生事精,労手足,煩教詔,雖治猶未至也。
書き下し
宓子賤、單父を治む。鳴琴を彈じ、身ら堂を下らず、而して單父治まる。巫馬期は星を以て出で、星を以て入り、日夜居らず、身を以て之を親らし、而して單父亦た治まる。巫馬期、其の故を宓子に問う。宓子曰く、「我を之れ人に任ずと謂い、子を之れ力に任ずと謂う。力に任ずる者は故より勞し、人に任ずる者は故より逸す。」宓子は則ち君子なり。四肢を逸し、耳目を全くし、心氣を平らかにし、而して百官以て治まり義あり。其の數に任ずるのみ。巫馬期は則ち然らず。生を弊らし精を事とし、手足を勞し、教詔を煩わしくす。治まると雖も猶ほ未だ至らざるなり。
現代語訳
宓子賤が単父を治めたとき、琴を弾き、自ら堂を下りることもなかったのに単父は治まった。巫馬期は星の出るころ(早朝暗いうち)に出仕し、星の出るころ(夜遅く)に退出し、昼夜休まず、自ら何事も手を下したので、やはり単父は治まった。巫馬期がそのわけを宓子に尋ねると、宓子は「私のやり方は人に任せるといい、あなたのやり方は力に頼るという。力に頼る者は当然苦労し、人に任せる者は当然楽なのだ」と答えた。宓子は君子である。四肢を休め、耳目を保ち、心気を平らかにしても、多くの役人はよく治まり道理にかなった。要点に任せただけだ。巫馬期はそうではない。生命をすり減らし精神を使い果たし、手足を苦労させ、政令を煩雑にした。治まったとはいえ、なお及ばなかったのだ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『韓非子』難一第三十六身死して蟲流れ戸を出でて葬られざるは、是れ臣重ければなり。臣重きの実は、主を擅にするなり。主を擅にするの臣有らば、則ち君令下に究まらず、臣情上に通ぜず。
-
『晏子春秋』諫上・景公從畋十八日不返國晏子諫景公、署梁に畋し、十有八日にして返らず。晏子、国より往きて公に見ゆ。至るに比び、衣冠正しからず。衣冠を革めず、遊を望みて馳す。公、晏子を望み見、車を下りて逆え労いて曰く、「夫子、何ぞ遽かなる。国家に故有ること無きか」と。晏子対えて曰く、「亦急ならずや。然りと雖も、嬰、復すること有らんことを願う。国人皆君を以て野に安んじて国に安んぜず、獣を好みて民を悪むと為す。乃ち不可ならざらんや」と。公曰く、「何ぞや。吾、夫婦の獄訟の正しからざるが為ならば、則ち泰士子牛存せり。社稷宗廟の享けざるが為ならば、則ち泰祝子遊存せり。諸侯賓客の之に応ずる莫きが為ならば、則ち行人子羽存せり。田野の辟かれず、倉庫の実たざるが為ならば、則ち申田存せり。国家の余り有り不足あるを聘うが為ならば、則ち吾が子存せり。寡人の五子有るは、猶お心の四支有るがごとし。心に四支有り、故に心は佚を得たり。今、寡人に五子有り、故に寡人は佚を得たり。豈に不可ならんや」と。晏子対えて曰く、「嬰之を聞く、君の言とは異なり。若し乃ち心に四支有りて、心は佚を得ば、則ち可なり。四支をして心無からしめて、十有八日、亦久しからずや」と。公、是に於いて畋を罷めて帰る。
-
史記 張釈之馮唐列伝吾独り廉頗・李牧を得て時に吾が将と為さざるか。吾豈に匈奴を憂へんや」と。唐曰く、「主臣。陛下廉頗・李牧を得と雖も、用ふること能はざるなり」と。上怒り、起ちて禁中に入る。良久しくして、唐を召して譲(せ)めて曰く、「公柰何ぞ衆にて我を辱むる。独り間処無からんや」と。唐謝して曰く、「鄙人忌諱を知らず」と。是の時に当たり、匈奴新たに大いに朝那に入り、北地の都尉卬を殺す。上胡寇を以て意と為し、乃ち卒に復た唐に問ひて曰く、「公何を以て吾が廉頗・李牧を用ふること能はざるを知るや」と。唐対へて曰く、「臣聞く、上古の王者の将を遣はすや、跪きて轂を推し、曰く閫(こん)以内は寡人之を制し、閫以外は将軍之を制すと。軍功爵賞は皆外に決し、帰りて之を奏す。此れ虚言に非ざるなり。臣の大父言ふ、李牧、趙の将と為りて辺に居り、軍市の租は皆自ら用ひて士を饗し、賞賜は外に決し、中より擾されずと。委任して成功を責む。故に李牧乃ち其の智能を尽くすを得たり。選車千三百乗、彀騎万三千、百金の士十万を遣はし、是を以て北のかた単于を逐ひ、東胡を破り、澹林を滅ぼし、西のかた彊秦を抑へ、南のかた韓・魏を支ふ。是の時に当たりて、趙幾(ほと)んど霸たらんとす。其の後会(たまたま)趙王遷立つ。其の母は倡なり。王遷立ち、乃ち郭開の讒を用ひ、卒に李牧を誅し、顔聚をして之に代はらしむ。是を以て兵破れ士北(に)げ、秦の禽滅する所と為る。今臣竊かに聞く、魏尚雲中の守と為り、其の軍市の租は尽く以て士卒を饗し、[出]私養の銭もて、五日に一たび牛を椎(う)ち、賓客・軍吏・舎人を饗す。是を以て匈奴遠く避け、雲中の塞に近づかず。虜曾て一たび入る。尚、車騎を率ゐて之を撃ち、殺す所其れ衆し。夫れ士卒は尽く家人の子にして、田中より起ちて軍に従ふ。安くんぞ尺籍・伍符を知らん。終日力戦し、首を斬り虜を捕へ、功を莫府に上るに、一言相応ぜざれば、文吏法を以て之を縄す。其の賞行はれずして吏の法を奉ずるは必ず用ひらる。
-
三略・中略軍勢に曰く、軍を出だし師を行るは、将は自ら専らにするに在り。進退内より御せば、則ち功成り難し。
-
『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
-
説苑・奉使趙王使者を楚に遣わす。方に瑟を鼓して之を遣わし、之を誡めて曰く、「必ず吾が言の如くせよ。」使者曰く、「王の瑟を鼓するや、未だ嘗て此くの如く悲しからざりき。」王曰く、「宮商固より方に調えり。」使者曰く、「調うれば則ち何ぞ其の柱に書さざるか。」王曰く、「天に燥濕有り、絃に緩急有り、宮商の移徙知るべからず、是を以て書さず。」使者曰く、「明君の人を使うや、之に任ずるに事を以てし、制するに辭を以てせず。吉に遇えば則ち之を賀し、凶には則ち之を弔う。今楚と趙と相去ること千有餘里、吉凶憂患、豫め知るべからざること、猶お柱の書すべからざるがごとし。詩に云う、『莘莘たる征夫、每に懷えども及ぶこと靡し。』」

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る