呂氏春秋 / 觀表③
吳起治西河之外,王錯譖之於魏武侯,武侯使人召之。吳起至於岸門,止車而休,望西河,泣數行而下。其僕謂之曰:「竊觀公之志,視舍天下若舍屣。今去西河而泣,何也?」吳起雪泣而應之,曰:「子弗識也。君誠知我,而使我畢能,秦必可亡,而西河可以王。今君聽讒人之議,而不知我,西河之為秦也不久矣,魏國從此削矣。」吳起果去魏入荊,而西河畢入秦,魏日以削,秦日益大。此吳起之所以先見而泣也。
新字:吳起治西河之外,王錯譖之於魏武侯,武侯使人召之。吳起至於岸門,止車而休,望西河,泣数行而下。其僕謂之曰:「竊観公之志,視舎天下若舎屣。今去西河而泣,何也?」吳起雪泣而応之,曰:「子弗識也。君誠知我,而使我畢能,秦必可亡,而西河可以王。今君聴讒人之議,而不知我,西河之為秦也不久矣,魏国従此削矣。」吳起果去魏入荊,而西河畢入秦,魏日以削,秦日益大。此吳起之所以先見而泣也。
書き下し
呉起、西河の外を治む。王錯、之を魏の武侯に譖す。武侯、人をして之を召さしむ。呉起、岸門に至り、車を止めて休み、西河を望みて、泣數行にして下る。其の僕、之に謂いて曰く、「竊かに公の志を觀るに、天下を舎つるを視ること屣を舎つるが若し。今西河を去りて泣くは何ぞや。」呉起、泣を雪ぎて之に應えて曰く、「子、識らざるなり。君誠に我を知りて、我をして能を畢くさしめば、秦必ず亡ぶ可くして、西河、以て王たる可し。今君、讒人の議を聽きて、我を知らず。西河の秦為るや久しからず。魏國此れ從り削られん。」呉起果して魏を去り荊に入る。而して西河畢く秦に入る。魏日に以て削られ、秦日に益々大なり。此れ吳起の先見して泣く所以なり。
現代語訳
呉起が西河の外を治めていた。王錯が呉起を魏の武侯に讒言し、武侯は人をやって呉起を召還した。呉起が岸門に着き、車を止めて休み、西河を望んで涙を数筋流した。従者が言った、「ひそかにあなたの志を見ますに、天下を捨てるのを草鞋を捨てるように見ておられました。今、西河を去って泣くのはなぜですか」。呉起は涙をぬぐって答えた、「お前にはわからない。君が本当に私を知り、私に能力を尽くさせてくれれば、秦は必ず滅ぼせて、西河をもって王たりえた。今、君は讒言する者の議を聴いて私を知らない。西河が秦のものになるのも間近だ。魏国はこれから削られていくだろう」。呉起は果たして魏を去って楚に入り、西河はことごとく秦のものになり、魏は日ごとに削られ、秦は日ごとに強大になった。これが呉起が先を見て泣いた理由である。
解説
この章句が説くこと
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