呂氏春秋 / 應言⑥
秦王立帝,宜陽令許綰誕魏王,魏王將入秦。魏敬謂王曰:「以河內孰與梁重?」王曰:「梁重。」又曰:「梁孰與身重?」王曰:「身重。」又曰:「若使秦求河內,則王將與之乎?」王曰:「弗與也。」魏敬曰:「河內,三論之下也。身,三論之上也。秦索其下而王弗聽,索其上而王聽之,臣竊不取也。」王曰:「甚然。」乃輟行。秦雖大勝於長平,三年然後決,士民倦,糧食。當此時也,兩周全,其北存。魏舉陶削衛,地方六百,有之勢是,而入大蚤,奚待於魏敬之說也?夫未可以入而入,其患有將可以入而不入,入與不入之時,不可不熟論也。
新字:秦王立帝,宜陽令許綰誕魏王,魏王将入秦。魏敬謂王曰:「以河内孰与梁重?」王曰:「梁重。」又曰:「梁孰与身重?」王曰:「身重。」又曰:「若使秦求河内,則王将与之乎?」王曰:「弗与也。」魏敬曰:「河内,三論之下也。身,三論之上也。秦索其下而王弗聴,索其上而王聴之,臣窃不取也。」王曰:「甚然。」乃輟行。秦雖大勝於長平,三年然後決,士民倦,糧食。当此時也,両周全,其北存。魏舉陶削衛,地方六百,有之勢是,而入大蚤,奚待於魏敬之説也?夫未可以入而入,其患有将可以入而不入,入与不入之時,不可不熟論也。
書き下し
秦王立ちて、宜陽に帝と爲り、許綰をして魏王を誕わらしむ。魏王將に秦に入らんとす。魏敬、王に謂いて曰く、「以うに河內は梁の重きに孰れぞ。」王曰く、「梁重し。」又曰く、「梁は身の重きに孰れぞ。」王曰く、「身重し。」又曰く、「若し秦をして河內を求めしめば、則ち王將に之を與えんか。」王曰く、「與えざるなり。」魏敬曰く、「河內は、三論の下なり。身は、三論の上なり。秦、其の下を索むれば王聽かず、其の上を索むれば王之を聽く。臣竊かに取らざるなり。」王曰く、「甚だ然り。」乃ち行くことを輟む。秦、大いに長平に勝つと雖も、三年にして然る後決す。士民倦れ、糧食盡く。此の時に當りてや、兩周全く、其の北存す。魏、陶を舉げ衛を削り、地、方六百。是の勢い有り。而るに入るは大いに蚤し。奚ぞ魏敬の說くを待たん。夫れ未だ以て入る可からずして入れば、其れ有た將に以て入る可くして入らざらんとするを患う。入ると入らざるの時は、熟論せざる可からざるなり。
現代語訳
秦王が帝位に即き、宜陽で帝と称し、許綰に魏王を欺かせた。魏王は秦へ赴こうとした。魏敬が王に言った、「思うに河内と大梁とはどちらが大切ですか。」王は「大梁が大切だ」と言った。また「大梁とあなた自身とはどちらが大切ですか」と問うと、王は「自身が大切だ」と言った。また「もし秦が河内を求めたら、王は与えますか」と問うと、王は「与えない」と言った。魏敬は言った、「河内は三つのうちで最も軽い。身は三つのうちで最も重い。秦が最も軽いものを求めても王は聞き入れず、最も重いものを求めれば王は聞き入れる。私はひそかに賛成できません。」王は「まったくそのとおりだ」と言い、赴くのをやめた。秦は長平で大勝したとはいえ、三年かかってようやく決着した。兵も民も疲れ、兵糧も尽きた。この時期、東西の周はともに無事で、その北方も保たれていた。魏は陶を取り衛を削り、領土は六百里四方に及んだ。これほどの勢いがあった。それなのに秦へ入るのはあまりに早計だった。どうして魏敬の説得を待つまでもなかろう。そもそもまだ入ってはならないのに入れば、逆に、入ってよいのに入らない事態も起こりうる。入るべきか否かの時機は、よくよく検討しなければならない。
解説
この章句が説くこと
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史記 田敬仲完世家田忌曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。蚤く之を救ふに如かず」と。孫子曰く、「夫れ韓・魏の兵未だ獘れずして之を救はば、是れ吾韓に代はりて魏の兵を受け、顧って反りて命を韓に聴くなり。且つ魏に国を破るの志有り。韓亡びんとするを見ば、必ず東面して斉に愬へん。吾因りて深く韓の親しみを結びて晩く魏の獘を承けば、則ち利を重ねて尊名を得べきなり」と。宣王曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓因りて斉を恃み、五たび戦ひて勝たず、東のかた国を斉に委ぬ。斉因りて兵を起こし、田忌・田嬰をして将たらしめ、孫子を師と為し、韓・趙を救ひて以て魏を撃ち、大いに之を馬陵に敗り、其の将龐涓を殺し、魏の太子申を虜にす。其の後三晋の王皆田嬰に因りて斉王に博望に朝し、盟ひて去る。七年、魏王と平阿の南に会す。明年、復た甄に会す。魏の恵王卒す。明年、魏の襄王と徐州に会し、諸侯相王とす。十年、楚我が徐州を囲む。十一年、魏と趙を伐つ。趙河水を決して斉・魏に灌ぐ。兵罷む。十八年、秦の恵王王と称す。宣王文学游説の士を喜ぶ。騶衍・淳于髡・田駢・接子・慎到・環淵の徒の如きより七十六人、皆列第を賜ひ、上大夫と為し、治めずして議論せしむ。是を以て斉の稷下の学士復た盛んにして、且に数百千人ならんとす。十九年、宣王卒し、子湣王地立つ。湣王元年、秦張儀をして諸侯の執政と齧桑に会せしむ。三年、田嬰を薛に封ず。四年、婦を秦に迎ふ。七年、宋と魏を攻め、之を観沢に敗る。十二年、魏を攻む。楚雍氏を囲む。秦屈丐を敗る。蘇代、田軫に謂ひて曰く、「臣願はくは公に謁する有らん。其の事を為すこと甚だ完し。楚をして公を利せしめ、成れば福と為り、成らずとも亦福と為さん。
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『呻吟語』内篇・問學・日落ちて城門に趕る日落ちて城門に趕る。一腳遲ければ便ち關ざされたり。何處にか止宿せん。故に學は時に及ぶを貴ぶ。懸崖に孤樹を抱く。一手鬆かなれば便ち脫れたり。何處にか身を落とさん。故に學は力を著くるを貴ぶ。故に老大に傷悲するも、時を追はんと要せば除は是れ再生なり。既に將に得んとするに失ふも、仍前ならんと要せば除は是れ頭より從ふなり。
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史記 周本紀明年、犬戎を伐つ。明年、密須を伐つ。明年、耆国を敗る。殷の祖伊之を聞き、懼れて、以て帝紂に告ぐ。紂曰く、「天命有らずや。是れ何をか能く為さん」と。明年、邘を伐つ。明年、崇侯虎を伐つ。而して豊邑を作り、岐下より徙りて豊に都す。明年、西伯崩じ、太子発立つ。是を武王と為す。西伯蓋し即位五十年。其の羑里に囚はるるや、蓋し易の八卦を益して六十四卦と為す。詩人西伯を道ふに、蓋し命を受けし年に王を称して虞・芮の訟を断ずと。後十年にして崩じ、謚して文王と為す。法度を改め、正朔を制す。古公を追尊して太王と為し、公季を王季と為す。蓋し王の瑞は太王より興る。武王即位し、太公望を師と為し、周公旦を輔と為し、召公・畢公の徒王を左右し、師として文王の緒業を修む。九年、武王上りて畢に祭る。東のかた兵を観し、盟津に至る。文王の木主を為り、載するに車を以てし、中軍とす。武王自ら太子発と称し、文王を奉じて以て伐つと言ひ、敢へて自ら専らにせず。乃ち司馬・司徒・司空・諸節に告ぐ、「斉栗せよ、信なるかな。予無知なれども、先祖に徳臣有るを以て、小子先功を受け、畢く賞罰を立て、以て其の功を定めん」と。遂に師を興す。師尚父号して曰く、「爾の衆庶を総べ、爾の舟楫を与にせよ。後れて至る者は斬らん」と。武王河を渡り、中流にして、白魚躍りて王の舟中に入る。武王俯して取りて以て祭る。既に渡るに、火有りて上より下に復り、王屋に至りて、流れて烏と為る。其の色赤く、其の声魄なりと云ふ。是の時、諸侯期せずして盟津に会する者八百諸侯。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「女未だ天命を知らず、未だ可ならず」と。乃ち師を還して帰る。居ること二年、紂の昏乱暴虐滋甚だしく、王子比干を殺し、箕子を囚ふと聞く。太師疵・少師彊其の楽器を抱きて周に奔る。
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