呂氏春秋 / 貴因②
武王使人候殷,反報岐周曰:“殷其亂矣。”武王曰:“其亂焉至?”對曰:“讒慝勝良。”武王曰:“尚未也。”又復往,反報曰:“其亂加矣。”武王曰:“焉至?”對曰:“賢者出走矣。”武王曰:“尚未也。”又往,反報曰:“其亂甚矣。”武王曰:“焉至?”對曰:“百姓不敢誹怨矣。”武王曰:“嘻!”遽告太公。太公對曰:“讒慝勝良,命曰戮;賢者出走,命曰崩;百姓不敢誹怨,命曰刑勝。其亂至矣,不可以駕矣。”故選車三百,虎賁三千,朝要甲子之期,而紂為禽,則武王固知其無與為敵也。因其所用,何敵之有矣?
新字:武王使人候殷,反報岐周曰:“殷其乱矣。”武王曰:“其乱焉至?”対曰:“讒慝勝良。”武王曰:“尚未也。”又復往,反報曰:“其乱加矣。”武王曰:“焉至?”対曰:“賢者出走矣。”武王曰:“尚未也。”又往,反報曰:“其乱甚矣。”武王曰:“焉至?”対曰:“百姓不敢誹怨矣。”武王曰:“嘻!”遽告太公。太公対曰:“讒慝勝良,命曰戮;賢者出走,命曰崩;百姓不敢誹怨,命曰刑勝。其乱至矣,不可以駕矣。”故選車三百,虎賁三千,朝要甲子之期,而紂為禽,則武王固知其無与為敵也。因其所用,何敵之有矣?
書き下し
武王、人をして殷を候わしむ。反りて岐周に報じて曰く、「殷は其れ亂れたり。」武王曰く、「其の亂るるや焉にか至る。」對えて曰く、「讒慝、良に勝つ。」武王曰く、「尚ほ未だしきなり。」又復た往きて、反りて報じて曰く、「其の亂るること加われり。」武王曰く、「焉にか至る。」對えて曰く、「賢者出でて走れり。」武王曰く、「尚ほ未だしきなり。」又往き、反りて報じて曰く、「其の亂るること甚だし。」武王曰く、「焉にか至る。」對えて曰く、「百姓敢て誹怨せず。」武王曰く、「嘻。」遽く太公に告ぐ。太公對えて曰く、「讒慝、良に勝つを、命づけて戮と曰い、賢者の出で走るを、命づけて崩と曰い、百姓敢て誹怨せざるを、命づけて刑勝と曰う。其の亂るること至れり。以て駕うる可からず。」故に選車三百・虎賁三千、朝に甲子の期を要して、紂禽と為る。則ち武王は固より其の與に敵為る無きを知るなり。其の用うる所に因らば、何の敵か之れ有らん。
現代語訳
武王が人を遣わして殷の様子を探らせた。使者は岐周に戻って「殷は乱れています」と報告した。武王が「乱れはどの程度に達しているか」と問うと、「讒言する邪悪な者が善良な者を圧しています」と答えた。武王は「まだ足りない」と言った。使者が再び行って戻り「乱れは進みました」と報告し、武王が問うと「賢者が国を出て逃げ去りました」と答えた。武王はなお「まだ足りない」と言った。三度目に行って戻り「乱れは甚だしくなりました」と報告し、程度を問うと「民衆はもはや誹り怨むこともしなくなりました」と答えた。武王は「ああ」と嘆じ、急いで太公に告げた。太公は「讒佞が善良に勝つのを『戮』、賢者が逃げ去るのを『崩』、民が誹り怨みもしなくなるのを『刑勝』という。乱れは極まった。もうこれ以上ひどくはなりようがない」と答えた。そこで精選した戦車三百、勇士三千で、甲子の日を期して攻め、紂王は捕らわれた。武王はもともと自分に敵する者がいないことを見抜いていたのである。相手の状況に因れば、どんな敵がありえよう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 白起王翦列伝その九月、秦また兵を発し、五大夫王陵をして趙の邯鄲を攻めしむ。
-
『呻吟語』内篇・問學・日落ちて城門に趕る日落ちて城門に趕る。一腳遲ければ便ち關ざされたり。何處にか止宿せん。故に學は時に及ぶを貴ぶ。懸崖に孤樹を抱く。一手鬆かなれば便ち脫れたり。何處にか身を落とさん。故に學は力を著くるを貴ぶ。故に老大に傷悲するも、時を追はんと要せば除は是れ再生なり。既に將に得んとするに失ふも、仍前ならんと要せば除は是れ頭より從ふなり。
-
論語・郷党篇色みて斯に挙がり、翔りて後に集まる。曰く、「山梁の雌雉、時なるかな、時なるかな。」子路之を共す。三たび嗅ぎて作つ。
-
史記 周本紀明年、犬戎を伐つ。明年、密須を伐つ。明年、耆国を敗る。殷の祖伊之を聞き、懼れて、以て帝紂に告ぐ。紂曰く、「天命有らずや。是れ何をか能く為さん」と。明年、邘を伐つ。明年、崇侯虎を伐つ。而して豊邑を作り、岐下より徙りて豊に都す。明年、西伯崩じ、太子発立つ。是を武王と為す。西伯蓋し即位五十年。其の羑里に囚はるるや、蓋し易の八卦を益して六十四卦と為す。詩人西伯を道ふに、蓋し命を受けし年に王を称して虞・芮の訟を断ずと。後十年にして崩じ、謚して文王と為す。法度を改め、正朔を制す。古公を追尊して太王と為し、公季を王季と為す。蓋し王の瑞は太王より興る。武王即位し、太公望を師と為し、周公旦を輔と為し、召公・畢公の徒王を左右し、師として文王の緒業を修む。九年、武王上りて畢に祭る。東のかた兵を観し、盟津に至る。文王の木主を為り、載するに車を以てし、中軍とす。武王自ら太子発と称し、文王を奉じて以て伐つと言ひ、敢へて自ら専らにせず。乃ち司馬・司徒・司空・諸節に告ぐ、「斉栗せよ、信なるかな。予無知なれども、先祖に徳臣有るを以て、小子先功を受け、畢く賞罰を立て、以て其の功を定めん」と。遂に師を興す。師尚父号して曰く、「爾の衆庶を総べ、爾の舟楫を与にせよ。後れて至る者は斬らん」と。武王河を渡り、中流にして、白魚躍りて王の舟中に入る。武王俯して取りて以て祭る。既に渡るに、火有りて上より下に復り、王屋に至りて、流れて烏と為る。其の色赤く、其の声魄なりと云ふ。是の時、諸侯期せずして盟津に会する者八百諸侯。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「女未だ天命を知らず、未だ可ならず」と。乃ち師を還して帰る。居ること二年、紂の昏乱暴虐滋甚だしく、王子比干を殺し、箕子を囚ふと聞く。太師疵・少師彊其の楽器を抱きて周に奔る。
-
史記 田敬仲完世家田忌曰く、「救はずんば、則ち韓且に折れて魏に入らんとす。蚤く之を救ふに如かず」と。孫子曰く、「夫れ韓・魏の兵未だ獘れずして之を救はば、是れ吾韓に代はりて魏の兵を受け、顧って反りて命を韓に聴くなり。且つ魏に国を破るの志有り。韓亡びんとするを見ば、必ず東面して斉に愬へん。吾因りて深く韓の親しみを結びて晩く魏の獘を承けば、則ち利を重ねて尊名を得べきなり」と。宣王曰く、「善し」と。乃ち陰かに韓の使者に告げて之を遣る。韓因りて斉を恃み、五たび戦ひて勝たず、東のかた国を斉に委ぬ。斉因りて兵を起こし、田忌・田嬰をして将たらしめ、孫子を師と為し、韓・趙を救ひて以て魏を撃ち、大いに之を馬陵に敗り、其の将龐涓を殺し、魏の太子申を虜にす。其の後三晋の王皆田嬰に因りて斉王に博望に朝し、盟ひて去る。七年、魏王と平阿の南に会す。明年、復た甄に会す。魏の恵王卒す。明年、魏の襄王と徐州に会し、諸侯相王とす。十年、楚我が徐州を囲む。十一年、魏と趙を伐つ。趙河水を決して斉・魏に灌ぐ。兵罷む。十八年、秦の恵王王と称す。宣王文学游説の士を喜ぶ。騶衍・淳于髡・田駢・接子・慎到・環淵の徒の如きより七十六人、皆列第を賜ひ、上大夫と為し、治めずして議論せしむ。是を以て斉の稷下の学士復た盛んにして、且に数百千人ならんとす。十九年、宣王卒し、子湣王地立つ。湣王元年、秦張儀をして諸侯の執政と齧桑に会せしむ。三年、田嬰を薛に封ず。四年、婦を秦に迎ふ。七年、宋と魏を攻め、之を観沢に敗る。十二年、魏を攻む。楚雍氏を囲む。秦屈丐を敗る。蘇代、田軫に謂ひて曰く、「臣願はくは公に謁する有らん。其の事を為すこと甚だ完し。楚をして公を利せしめ、成れば福と為り、成らずとも亦福と為さん。
-
説苑・說叢時至らざれば、強いて生ずべからず。事究めざれば、強いて求むべからず。貞良にして亡ぶるは、先人の餘殃なり。猖獗にして活くるは、先人の餘烈なり。權は重きを取り、澤は長きを取る。才賢にして任輕ければ則ち名有り、不肖にして任大なれば身死し名廢る。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る