呂氏春秋 / 謹聽②
夫堯惡得賢天下而試舜?舜惡得賢天下而試禹?斷之於耳而已矣。耳之可以斷也,反性命之情也。今夫惑者,非知反性命之情,其次非知觀於五帝、三王之所以成也,則奚自知其世之不可也?奚自知其身之不逮也?太上知之,其次知其不知。不知則問,不能則學。周箴曰:“夫自念斯,學德未暮。”學賢問,三代之所以昌也。不知而自以為知,百禍之宗也。名不徒立,功不自成,國不虛存,必有賢者。賢者之道,牟而難知,妙而難見。故見賢者而不聳則不惕於心,不惕於心則知之不深。不深知賢者之所言,不祥莫大焉。
新字:夫堯悪得賢天下而試舜?舜悪得賢天下而試禹?断之於耳而已矣。耳之可以断也,反性命之情也。今夫惑者,非知反性命之情,其次非知観於五帝、三王之所以成也,則奚自知其世之不可也?奚自知其身之不逮也?太上知之,其次知其不知。不知則問,不能則学。周箴曰:“夫自念斯,学徳未暮。”学賢問,三代之所以昌也。不知而自以為知,百禍之宗也。名不徒立,功不自成,国不虚存,必有賢者。賢者之道,牟而難知,妙而難見。故見賢者而不聳則不惕於心,不惕於心則知之不深。不深知賢者之所言,不祥莫大焉。
書き下し
夫れ堯は惡くんぞ賢を天下に得て舜を試いたる、舜惡くんぞ賢を天下に得て禹を試いたる。之を耳に斷ずるのみ。耳の以て斷ず可きや、性命の情に反るなり。今夫の惑う者は、生命の情に反るを知るに非ず、其の次は五帝・三王の成る所以を觀るを知るに非ざるなり。則ち奚ぞ自ら其の世の可ならざるを知らんや。奚ぞ自ら其の身の逮ばざるを知らんや。太上は之を知り、其の次は其の知らざることを知る。知らざれば則ち問い、能わざれば則ち學ぶ。周の箴に曰く、「夫れ自ら斯を念えば、徳に學ぶこと未だ暮からず。」賢に學び問うは、三代の昌えたる所以なり。知らずして自ら以て知ると為すは、百禍の宗なり。名は徒らには立たず、功は自らには成らず、國は虚しくは存せず、必ず賢者有り。賢者の道は、牟として知り難く、妙にして見難し。故に賢者を見て聳まざれば則ち心に惕かず、心に惕かざれば、則ち之を知ること深からず。深くは賢者の言う所を知らず、不祥焉より大なるは莫し。
現代語訳
堯はどうやって天下から賢者を得て舜を試用したのか。舜はどうやって天下から賢者を得て禹を試用したのか。耳で聞いて判断しただけである。耳で判断できるのは、性命の本来の情に立ち返るからだ。今の惑う者は、性命の情に立ち返ることを知らず、その次善として五帝三王が成功したゆえんを観ることも知らない。それでどうして自分の世が立ちゆかないことを知ろうか。どうして自分の身が及ばないことを知ろうか。最上の者はそれを知り、次善の者は自分が知らないということを知る。知らなければ問い、できなければ学ぶ。周の箴に、自らこう思うなら徳を学ぶのに遅すぎることはない、とある。賢者に学び問うことこそ、三代が栄えたゆえんである。知らないのに自分は知っていると思うのは、あらゆる禍のもとである。名はいたずらに立たず、功はひとりでに成らず、国はむなしく保たれない。必ず賢者がいるのだ。賢者の道は、深遠で知りにくく、精妙で見えにくい。ゆえに賢者を見ても心が引き締まらなければ心は動かず、心が動かなければ理解も深まらない。賢者の言うことを深く理解しないこと、これほど不吉なことはない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『囲炉夜話』第二十三則・富みて讀書を肯ぜず富みて讀書を肯ぜず、貴くして積德を肯ぜざるは、錯過して惜しむべきなり。 少くして長に事ふるを肯ぜず、愚にして賢に親しむを肯ぜざるは、不祥焉より大なるは莫し。
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『慎思録』巻之六孟子曰く、伯夷は隘なり、柳下恵は不恭なりと。蓋し賢者以下は、往々禀性偏りて全からず。其の賢なること二子の如きも、亦其の病無きこと能はず。此に長ずと雖も、或いは彼に短なり。中庸の所謂其の次は曲を致す者なり。聖人の陰陽徳を合せ、短長の論ずべき無きに如かず。夫れ伯夷・柳下恵も亦偏性有り。此を以て之を看れば、康節・伊川の如きも、亦同じく是れ賢哲なりと雖も、然り而して偏性無きこと能はず。蓋し康節は伊川の謹厳に如かず、伊川は康節の寛舒に如かず。是れ賢者と雖も、亦各々長処有り短処有ること此くの如し。
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呂氏春秋・贊能①賢者は人に善くするに人を以てし、中人は事を以てし、不肖者は財を以てす。十の良馬を得るは、一の伯樂を得るに若かず。十の良劍を得るは、一の歐冶を得るに若かず。地千里を得るは、一の聖人を得るに若かず。舜、皋陶を得て、舜、之を受く。湯、伊尹を得て夏民を有ち、文王、呂望を得て殷商を服す。夫れ聖人を得れば、豈に里數有らんや。
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孟子・離婁章句下其の間、寸を以てすること能はず。」
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史記 魏世家昭公卒して六卿彊く、公室卑し。晋の頃公の十二年、韓宣子老し、魏献子国政を為す。晋の宗室の祁氏・羊舌氏相悪む。六卿之を誅し、尽く其の邑を取りて十県と為し、六卿各々其の子をして之が大夫と為らしむ。献子、趙簡子・中行文子・范献子と并びに晋の卿為り。其の後十四歳にして孔子魯に相たり。後四歳、趙簡子晋陽の乱を以て、韓・魏と共に范・中行氏を攻む。魏献子、魏侈を生む。魏侈、趙鞅と共に范・中行氏を攻む。魏侈の孫を魏桓子と曰ふ。韓康子・趙襄子と共に知伯を伐ち滅ぼし、其の地を分つ。桓子の孫を文侯都と曰ふ。魏の文侯の元年は、秦の霊公の元年なり。韓の武子・趙の桓子・周の威王と時を同じくす。六年、少梁に城く。十三年、子撃をして繁・龐を囲ましめ、其の民を出だす。十六年、秦を伐ち、臨晋・元裏に築く。十七年、中山を伐ち、子撃をして之を守らしめ、趙倉唐之に傅たり。子撃、文侯の師田子方に朝歌に逢ひ、車を引きて避け、下りて謁す。田子方礼を為さず。子撃因りて問ひて曰く、『富貴なる者人に驕るか。且つ貧賤なる者人に驕るか』と。子方曰く、『亦貧賤なる者人に驕るのみ。夫れ諸侯にして人に驕れば則ち其の国を失ひ、大夫にして人に驕れば則ち其の家を失ふ。貧賤なる者は、行ひ合はず、言用ひられずんば、則ち去りて楚・越に之くこと、屣を脱ぐが若く然り。奈何ぞ其れ之を同じくせんや』と。子撃懌ばずして去る。西のかた秦を攻め、鄭に至りて還り、雒陰・合陽に築く。廿二年、魏・趙・韓列して諸侯と為る。廿四年、秦我を伐ち、陽狐に至る。廿五年、子撃子罃を生む。
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『学則』答屈景山書不佞其の是くの若きを懲り、凡そ師友の素有るに非ずして来たりて相問難する者に値ふ毎に、一切対を置かず。是れ不佞の常なり。不佞往歳蘐園随筆を作る。其の時、識見未だ定まらず、争心未だ消えず。然れども随筆の作は、自ら書して以て自ら翫び、聊か以て間を消すのみにして、初めより以て人に示すに非ざるなり。独り奈んせん、誤りて剞劂の手に堕ち、遂に諸を海内に公にす。海内の諸君子、因りて不佞を弁を好む者と謂ふ。不佞の心に非ざるなり。今来喩を観るに、亦た対を置かざるの例に在り。然りと雖も、足下既に争心無きを以て告げられ、而して君家の先生は乃ち不佞が髫年の時より私心に郷往する所なれば、則ち何ぞ必ずしも恝然たらんや。亦た唯人心の面の如き、不佞豈に能く諸を足下に喩さんや。但だ不佞の李王を取る所以の故を言ひて以て来意に酬いん。其の取舍の如きは、乃ち足下に在り。唯足下之を択べ。

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