呂氏春秋 / 蕩兵②
家無怒笞,則豎子嬰兒之有過也立見;國無刑罰,則百姓之(悟)相侵也立見;天下無誅伐,則諸侯之相暴也立見。故怒笞不可偃於家,刑罰不可偃於國,誅伐不可偃於天下,有巧有拙而已矣。故古之聖王有義兵而無有偃兵。
新字:家無怒笞,則豎子嬰児之有過也立見;国無刑罰,則百姓之(悟)相侵也立見;天下無誅伐,則諸侯之相暴也立見。故怒笞不可偃於家,刑罰不可偃於国,誅伐不可偃於天下,有巧有拙而已矣。故古之聖王有義兵而無有偃兵。
書き下し
家に怒笞無ければ、則ち豎子嬰兒の過ち有るや立ろに見わる。國に刑罰無ければ、則ち百姓の悟いて相侵すや立ろに見わる。天下に誅伐無ければ、則ち諸侯の相暴するや立ろに見わる。故に怒笞は家に偃む可からず。刑罰は國に偃む可からず。誅伐は天下に偃む可からず。巧有り拙有るのみ。故に古の聖王は義兵有りて偃兵有ること無し。
現代語訳
家に叱責や鞭がなければ、子どもの過ちがたちまち現れる。国に刑罰がなければ、民が逆らって侵し合うのがたちまち現れる。天下に討伐がなければ、諸侯が互いに乱暴するのがたちまち現れる。だから叱責や鞭は家で廃止できず、刑罰は国で廃止できず、討伐は天下で廃止できない。ただそこに巧拙の別があるだけである。だから古の聖王には義兵はあっても偃兵はなかった。
解説
罰を廃止できないことを、家・国・天下と規模を広げながら論じた一段です。家の鞭、国の刑罰、天下の討伐は、いずれも過ちや暴虐を抑える手段であり、なくせば悪がたちまち表れると説きます。廃止の可否ではなく、その用い方の巧拙こそが問題だとし、討伐すなわち義兵の必要を家庭のしつけになぞらえて示します。身近な例から国家の武力へと段階的に説く構成は、抽象論を具体で裏づける古代弁論の巧みさを伝えます。力の行使を全否定せず、いかに正しく用いるかを問う姿勢は、現代の統治や規律の議論にも響きます。
この章句が説くこと
刑罰誅伐偃兵義兵巧拙家国天下
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