呂氏春秋 / 誣徒②
不能教者:志氣不和,取舍數變,固無恆心,若晏陰喜怒無處;言談日易,以恣自行,失之在己,不肯自非,愎過自用,不可(證)〔証〕移;見(權親)〔親權〕勢及有富厚者,不論其材,不察其行,(歐)〔敺〕而教之,阿而(謟)〔諂〕之,若恐弗及;弟子居處修潔,身狀出倫,聞識䟽達,就學敏疾,本業幾終者,則從而抑之,難而懸之,妬而惡之;弟子去則冀終,居則不安,歸則愧於父(毋)〔母〕兄弟,出則慚於知友邑里;此學者之所悲也,此師徒相與異心也。人之情,惡異於己者,此師徒相與造怨尤也。人之情,不能親其所怨,不能譽其所惡,學業之敗也,道術之廢也,從此生矣。
新字:不能教者:志気不和,取舎数変,固無恒心,若晏陰喜怒無処;言談日易,以恣自行,失之在己,不肯自非,愎過自用,不可(證)〔証〕移;見(権親)〔親権〕勢及有富厚者,不論其材,不察其行,(欧)〔敺〕而教之,阿而(謟)〔諂〕之,若恐弗及;弟子居処修潔,身状出倫,聞識䟽達,就学敏疾,本業幾終者,則従而抑之,難而懸之,妬而悪之;弟子去則冀終,居則不安,帰則愧於父(毋)〔母〕兄弟,出則慚於知友邑里;此学者之所悲也,此師徒相与異心也。人之情,悪異於己者,此師徒相与造怨尤也。人之情,不能親其所怨,不能誉其所悪,学業之敗也,道術之廃也,従此生矣。
書き下し
教うること能わざる者は、志氣和せず、取舍數々變わり、固より恆心無きこと晏陰の若く、喜怒處無く、言談日に易わり、以て恣に自ら行う。之を失すること己に在れども、自らの非を肯ぜず、愎過自ら用いて、證め移す可からず。權勢及び富厚有る者を見れば、其の材を論ぜず、其の行いを察せず、敺りて之に教え、阿りて之に諂い、及ばざるを恐るるが若し。弟子の、居處は修潔、身狀は倫を出で、聞識は疏達、學に就くこと敏疾、本業終わるに幾き者は、則ち從って之を抑え、難じて之を懸て、妬みて之を惡む。弟子去れば則ち終わらんことを冀い、居れば則ち安からず、歸れば則ち父母兄弟に愧ぢ、出づれば則ち知友邑里に慚づ。此れ學者の悲しむ所なり、此れ師徒相與に心を異にせるなり。人の情、己に異なる者を惡む。此れ師徒相與に怨尤を造すなり。人の情、其の怨む所に親しむこと能わず、其の惡む所を譽むること能わず。學業の敗るるや、道術の廢るるや、此れ從り生ず。
現代語訳
教えることができない下手な師は、心のありようが調和せず、取捨がたびたび変わり、もともと一定した心がなく、まるで晴れたり曇ったりするように定まらず、喜怒に節度がなく、言うことが日ごとに変わり、勝手気ままにふるまう。過失が自分にあっても自分の非を認めず、道理にそむいた過ちを重ねて我を通し、諫めても改めさせられない。権勢のある者や富裕な者を見ると、その素質を問わず行いも調べず、こぞって教えを施し、へつらいこびて、取り入るのに間に合わないことを恐れるかのようだ。一方で弟子のうち、日常が清らかで、姿かたちが人並みすぐれ、見聞や知識が広く通じ、学業の進みが速く、本業をまさに修め終えようとする者に対しては、かえって抑えつけ、難癖をつけて遠ざけ、妬んで憎む。そのため弟子は、去れば早く終わってほしいと願い、師のもとにいれば落ち着かず、家に帰れば父母兄弟に恥じ入り、外に出れば友人や郷里の人に恥じる。これは学ぶ者の悲しむところであり、師と弟子が互いに心を違えているのである。人の心情として、自分と違う者を憎む。これは師と弟子が互いに恨みを作り合うことである。人の心情として、恨む相手には親しめず、憎む相手をほめることはできない。学業が破綻し、学問の道がすたれるのは、ここから生じるのである。
解説
この章句が説くこと
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史記 老子韓非列伝人或いは其の書を伝へて秦に至る。秦王、孤憤・五蠹の書を見て曰く、「嗟乎、寡人此の人を見、之と游ぶを得ば、死すとも恨みじ」と。李斯曰く、「此れ韓非の著す所の書なり」と。秦因りて急に韓を攻む。韓王、始め非を用ゐず、急なるに及び、乃ち非を遣り秦に使ひせしむ。秦王之を悦ぶも、未だ信用せず。李斯・姚賈之を害み、之を毀りて曰く、「韓非は韓の諸公子なり。今王、諸侯を并せんと欲するに、非は終に韓の為にして秦の為にせず、此れ人の情なり。今王用ゐずして久しく留めて之を帰すは、此れ自ら患ひを遺すなり。過法を以て之を誅するに如かず」と。秦王、以て然りと為し、吏に下して非を治む。李斯、人をして非に薬を遺らしめ、自殺せしむ。韓非、自ら陳べんと欲するも、見ゆるを得ず。秦王後に之を悔い、人をして之を赦さしむるに、非已に死せり。申子・韓子皆書を著し、後世に伝はり、学ぶ者多く有り。余独り韓子の説難を為りて自ら脱する能はざりしを悲しむのみ。
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人物志・釋爭前に在る者は然れば之を害せられ、功有る者は人之を毀り、毀敗する者は人之を幸とす。
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尚書・秦誓人の技有るや、己に之有るが若くし、人の彥聖なるや、其の心之を好む。
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史記 孫子呉起列伝孫武既に死し、後百余歳して孫臏有り。臏は阿・鄄の間に生まる。臏も亦た孫武の後世の子孫なり。孫臏嘗て龐涓と倶に兵法を学ぶ。龐涓既に魏に事へ、恵王の将軍と為るを得たり。而れども自ら以為らく、能は孫臏に及ばず、と。乃ち陰かに孫臏を召さしむ。臏至り、龐涓、其の己より賢なるを恐れ、之を疾む。則ち法刑を以て其の両足を断ちて之を黥し、隠れて見る勿らんことを欲す。
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『韓非子』說林上二十二子園、孔子の君に貴ばれんことを恐るるや、...太宰因て復た見えしめず。