了凡四訓 / 積善之方・心善に著せざれば皆な圓滿を得
又為善而心不著善,則隨所成就,皆得圓滿。心著於善,雖終身勤勵,止於半善而已。譬如以財濟人,內不見己,外不見人,中不見所施之物,是謂三輪體空,是謂一心清淨,則斗粟可以種無涯之福,一文可以消千劫之罪,倘此心未忘,雖黃金萬鎰,福不滿也。此又一說也。
新字:又為善而心不著善,則随所成就,皆得円満。心著於善,雖終身勤励,止於半善而已。譬如以財済人,内不見己,外不見人,中不見所施之物,是謂三輪体空,是謂一心清浄,則斗粟可以種無涯之福,一文可以消千劫之罪,倘此心未忘,雖黄金万鎰,福不満也。此又一説也。
書き下し
又た善を為して心善に著せざれば、則ち成就する所に隨ひて、皆な圓滿を得。心善に著すれば、終身勤勵すと雖も、半善に止まるのみ。譬へば財を以て人を濟ふに、内に己を見ず、外に人を見ず、中に施す所の物を見ざるが如き、是れを三輪體空と謂ひ、是れを一心清淨と謂ふ。則ち斗粟以て無涯の福を種うべく、一文以て千劫の罪を消すべし。倘し此の心未だ忘れずんば、黃金萬鎰と雖も、福滿たざるなり。此れ又た一說なり。
現代語訳
また、善を行っても心が善にとらわれなければ、成し遂げたことはすべて円満になります。心が善にとらわれていれば、一生励み続けても、半分の善にとどまるだけです。たとえば財で人を救うとき、内には施す自分を見ず、外には施される相手を見ず、その間には施す品物を見ない。これを三輪体空といい、これを一心清浄といいます。そうであれば、一斗の穀物でも果てしない福の種となり、一文の銭でも千劫の罪を消すことができます。もしこの「施した」という心を忘れられなければ、黄金を一万鎰(重さの単位)施しても、福は満ちません。これもまた一つの説です。
解説
半と満の三つめの説は、善にとらわれない心です。仏教でいう三輪体空、つまり施す自分、受ける相手、施す物の三つをいずれも意識しない境地が引かれます。そうであれば一斗の穀物も無限の福となり、「施してやった」という思いが残れば万金も満たない、と了凡は書きます。前の単位の、心の切実さが善を満たすという話を、さらに一歩進めたものです。人の役に立ったことを覚えていて、感謝や見返りを心のどこかで待っていると、善はそこで半分になります。手伝ったことを自分の中で数えないこと。これは難しいことですが、恩着せがましさのない人の振る舞いは、周りの人を楽にしてくれます。
この章句が説くこと
三輪体空布施無心積善半満
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