了凡四訓 / 積善之方・千金を半と為し、二文を滿と為す
昔有某氏女入寺,欲施而無財,止有錢二文,捐而與之,主席者親為懺悔;及後入宮富貴,攜數千金入寺捨之,主僧惟令其徒回向而己。因問曰:吾前施錢二文,師親為懺悔,今施數千金,而師不回向,何也?曰:前者物雖薄,而施心甚真,非老僧親懺,不足報德;今物雖厚,而施心不若前日之切,令人代懺足矣。此千金為半,而二文為滿也。鐘離授丹於呂祖,點鐵為金,可以濟世。呂問曰:終變否?曰:五百年後,當復本質。呂曰:如此則害五百年後人矣,吾不願為也。曰:修仙要積三千功行,汝此一言,三千功行已滿矣。此又一說也。
新字:昔有某氏女入寺,欲施而無財,止有銭二文,捐而与之,主席者親為懺悔;及後入宮富貴,攜数千金入寺捨之,主僧惟令其徒回向而己。因問曰:吾前施銭二文,師親為懺悔,今施数千金,而師不回向,何也?曰:前者物雖薄,而施心甚真,非老僧親懺,不足報徳;今物雖厚,而施心不若前日之切,令人代懺足矣。此千金為半,而二文為満也。鐘離授丹於呂祖,点鉄為金,可以済世。呂問曰:終変否?曰:五百年後,当復本質。呂曰:如此則害五百年後人矣,吾不願為也。曰:修仙要積三千功行,汝此一言,三千功行已満矣。此又一説也。
書き下し
昔、某氏の女有り、寺に入りて、施さんと欲するも財無く、止だ錢二文有るのみ。捐てて之を與ふ。主席の者親ら為に懺悔す。後に宮に入りて富貴なるに及び、數千金を攜へて寺に入りて之を捨つ。主僧惟だ其の徒をして回向せしむるのみ。因りて問ひて曰く、吾前に錢二文を施すに、師親ら為に懺悔す。今數千金を施すに、師回向せざるは、何ぞや、と。曰く、前は物薄しと雖も、施心甚だ真なり。老僧親ら懺するに非ざれば、以て德に報ゆるに足らず。今は物厚しと雖も、施心前日の切なるに若かず。人をして代はりて懺せしむれば足れり、と。此れ千金を半と為し、二文を滿と為すなり。鐘離丹を呂祖に授け、鐵を點じて金と為し、以て世を濟ふべしとす。呂問ひて曰く、終に變ずるや否や、と。曰く、五百年の後、當に本質に復るべし、と。呂曰く、此くの如くんば則ち五百年後の人を害せん。吾為すを願はざるなり、と。曰く、仙を修むるには三千の功行を積むを要す。汝の此の一言、三千の功行已に滿てり、と。此れ又た一說なり。
現代語訳
昔、ある家の娘が寺に参り、布施をしたいと思いましたが財がなく、銭が二文あるだけでした。それを差し出すと、住職がみずから彼女のために懺悔の祈りをしました。のちに娘が後宮に入って富貴の身となり、数千両を携えて寺に参り布施をすると、住職は弟子に回向(功徳を振り向ける祈り)をさせただけでした。そこで娘は尋ねました。「私が以前二文を布施したとき、師はみずから懺悔の祈りをしてくださいました。今数千両を布施したのに、師が回向なさらないのはなぜですか」。住職は答えました。「以前は品物はわずかでも、施す心がまことに真剣でした。老僧がみずから祈らなければ、その徳に報いるには足りなかったのです。今は品物は多くても、施す心は以前ほど切実ではありません。人に代わりに祈らせれば十分です」。これは、千両が半であり、二文が満であるということです。また、鍾離権が呂祖(呂洞賓)に仙丹を授け、鉄に触れて金に変え、それで世を救えるようにしました。呂が「最後まで金のままですか」と尋ねると、鍾離は「五百年後には元の鉄に戻る」と答えました。呂は「それでは五百年後の人を害することになります。私はそうしたくありません」と言いました。鍾離は言いました。「仙人となる修行には三千の功行を積む必要がある。あなたのこの一言で、三千の功行はもう満ちた」。これもまた一つの説です。
解説

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