了凡四訓 / 改過之法・行年五十にして四十九年の非を知る
昔蘧伯玉當二十歲時,己覺前日之非而盡改之矣。至二十一歲,乃知前之所改,未盡也;及二十二歲,回視二十一歲,猶在夢中,歲復一歲,遞遞改之,行年五十,而猶知四十九年之非,古人改過之學如此。 吾輩身為凡流,過惡蝟集;而回思往事,常若不見其有過者,心粗而眼翳也。
新字:昔蘧伯玉当二十歳時,己覚前日之非而尽改之矣。至二十一歳,乃知前之所改,未尽也;及二十二歳,回視二十一歳,猶在夢中,歳復一歳,逓逓改之,行年五十,而猶知四十九年之非,古人改過之学如此。 吾輩身為凡流,過悪蝟集;而回思往事,常若不見其有過者,心粗而眼翳也。
書き下し
昔、蘧伯玉二十歲の時に當りて、已に前日の非を覺りて盡く之を改む。二十一歲に至りて、乃ち前の改むる所の未だ盡きざるを知る。二十二歲に及びて、二十一歲を回視すれば、猶ほ夢中に在るがごとし。歲復た一歲、遞遞に之を改め、行年五十にして、猶ほ四十九年の非を知る。古人の過を改むるの學は此くの如し。 吾輩は身凡流為り、過惡蝟集す。而れども往事を回思するに、常に其の過有るを見ざるが若き者は、心粗くして眼翳ればなり。
現代語訳
昔、蘧伯玉(春秋時代の衛の賢大夫)は二十歳のとき、すでにそれまでの非に気づいてすべて改めました。ところが二十一歳になると、前に改めたことがまだ十分でなかったと知りました。二十二歳になって二十一歳のころを振り返ると、まだ夢の中にいたようでした。一年また一年と、次々に改めていき、五十歳になってもなお、それまでの四十九年の非を知りました。昔の人の過ちを改める学問とは、このようなものでした。私たちは凡人の身で、過ちや悪がはりねずみの針のように集まっています。それなのに過去を振り返っても、いつも過ちがないかのように思えるのは、心が粗く、目が曇っているからです。
解説

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